The Birthday Party by Harold Pinter at The Harold Pinter Theatre

観劇日:2018年3月17日14時半

演出:Ian Rickson

 

 『バースデーパーティ』の上演って観たことなかったのよねというのと、ピンターは卒論で扱ったので個人的な思い入れも大きいのと、あとトビー・ジョーンズ*1がスタンリーだってので、観てきました。Rickson演出なら大外れもないだろうしと。

 ブログ書くので調べたところ、これ初演1957年で60年前かよ!と今さらおどろいている。確かに、この作品で起こる出来事はもはや不条理ではなくて、ダークコメディとして消化出来るというか、現代ではより恐ろしいことがあり得るだろうという想定はそれほど難しくない(というか、まぁあるし)。もっと言えば(そりゃ60年経ってりゃ当たり前なのだけど)ピンターの特に初期作品はもう古典になっていて、今作の詳細までは知らなくともピンター作品がどういうポイントで評価されてきたかというのは、なんとなく程度には共有されているわけだ。そういうことを了承済みでの演出だった。

 全体としてミステリー的なニュアンスはほぼ消えていて、むしろ各登場人物や設定をカリカチュアライズしてしまう、ある意味ではベタな演出。登場人物の衣装が典型的*2だったが、特に美術が面白い。遠近法がきつく効いた昔ながらのダイニングルームで、壁紙や家具、調度品への気配りのわりに妙に殺風景な感じ。昭和の洋風シルバニアファミリーのおうち、という例えで伝わりますかね。そういう象徴的なアイテムで、作品が舞台上の記号に沿って展開していくよ、とあらかじめ提示したうえで、役者の技量はエンターテイメントへ振るという判断。

 このミニチュア模型っぽさ、というのか、舞台となる宿屋の一日を他人事のようにのぞき込んでいる感覚は、ピンターの理解としては個人的には新鮮だった。実際、作品自体はコメディとしてとてもよくできている作品。達者な人たちがこういう演出の中でやれば、深刻に構えなくとも観れるのだというのは、ピンターとは社会の不条理や人間の政治的な関係性を描いた人、というところから英演劇の勉強を始めた者としては、発見でもある。

 もちろんエンターテイメントになることで無くなるものもあって、例えばスタンリーのフラジャイルな感じは戯曲を読んだ印象よりも明らかに弱まっているのだが(つまりそれは彼を被抑圧者と見る解釈をいわば除いているわけで)そこはやっぱりまだ政治的に読む可能性があるのではという考えが捨てられない。*3サタイアとかポリティカルコメディの古典的名作が時代を経て寓話となっていくことの是非は、もはやこの作品で起こる事態が不条理ではないとはいえ、私自身は結構揺れている。

 鑑賞中は楽しみつつ、観終わって反芻することも多い作品だった。まぁでも、日本の大学で英文学の中でピンターを学ぶとものすごく最近の作家という印象があって(なにせ教科書のスタート地点はベオウルフ)なんとなくその印象を引きずって今に至るのですが、デビューは60年以上も前、今作も彼の名を冠した劇場での公演なわけで、そりゃまぁ歴史上の作品となってもいくわなぁとぼんやり。もちろん、ピンター作品が古びるというわけではなく、でもどうアップデートするかが、まさに今のような時代では鍵ですよね。

*1:好き。出演作の一押しはBBCのコメディドラマ Detectristsです。見て。

*2:真っ黒で常にしわのないスーツとか、ベストやシャツのくたびれ感や妙にクラシックなデザインとか、パーティドレスのださビビッドな色合いとか、人となりがすぐわかるファッション。

*3:スタンリーは結構キャラクターとしては曖昧だとは思うんで一概に抑圧(だけ)されているとも言えないのですが。『ダム・ウェイター』の二人ほどはっきりと下っ端の立場にいるわけではないし、宿屋の人々との関係も『管理人』の三すくみのそれに近いようで微妙に均衡が崩れてもいるし。

Showtime from the Frontline by Mark Thomas at mac

 観劇日:2018年3月2日20時

 

 マーク・トーマスが2014年にパレスチナ、ジェニンの難民キャンプ内の劇場で行ったスタンダップコメディのワークショップが今作の軸。表現活動に対して厳しい統制が敷かれる状況下、囚人たちによるハンガーストライキとその支援デモの最中に「コメディなんて」と白い目で見られつつ、ワークショップの締めくくりに生徒たちの作品発表の場としてコメディクラブ*1を開催するまで、をトーマスが語る。これと並行して、ワークショップでの教え子であるFaisal Abu Alhayjaa と Alaa Shehadaがパフォーマーとして加わり、舞台経験もバックグラウンドもバラバラな生徒たちとのワークショップ風景、トーマスと現地の人々それぞれの視点で語られるパレスチナの現状(と両者のずれ)がスキットやスタンダップの形をとって語られていく。

 これ笑っていいの…?というラインを狙うのが政治ネタの理想だと思うのですが、いやこれ笑えないでしょ、というエピソードは少なからずあり、それでも三人のデリバリースキルは素晴らしくて、深刻になり過ぎずでもむやみに明るすぎずという緊張感の中それらのジョークにも笑ってしまった。*2観劇中ふと思い浮かんだのは、去年観たThe Jungle(もちろん設定される状況は違うものの)。どうしようもなく凄惨な出来事でかつ自分には知りようのないことに、どうすれば舞台を通じてアクセスできるのだろうと考えた時に、The Jungleがある種イマーシブな形をとったのだとすれば、今作はコメディという形式を通じて観客にエピソードと距離を取らせ、我が事にさせない方向に仕向けている。とはいえ、やっぱりしんみりしたり泣けてしまう場面はあって、無事開催されたコメディクラブの様子を語るラストでは、映像で実際の生徒たちのスタンダップの一部を流し、FaisaiとAlaaは実際に自分の持ちネタをやる。ネタに笑いつつ、その様子はやっぱり胸に来る。同情からくるものではないと思う。

 この日は電車が止まるほどの寒波と豪雪で*3、バーミンガム市街地の劇場はみな公演キャンセルという中、かなり強引な上演決行。実際、三分の一以上のお客さんが来れないという状況だった。トーマス自身がこの件については上演前もツイッターでも説明をしていて、作中にも語られるのだが、大きな理由はパレスチナからのイギリス興行ビザがものすごく複雑で追加公演等の日程変更が出来ないこと。実際に彼らのパフォーマンスを観れば、ここまできて舞台をやれないってのはないよなぁ、とショーマストゴーオンの精神を思い知る。

 国連職員(だったかな?)らと車で移動中、些細な事でイスラエルの警察官の尋問にあい、その物々しい態度に思わず笑ったら相手がとても苛立った、というエピソードを、近年の政治風刺にまつわる様々な事件を交えつつ、トーマスが語る。権力は笑いを嫌がる、だからコメディをやる意味があるのだ、と語る彼はとてもかっこよくて、私がコメディやお笑いを好きな理由もそこだよ、と思いました。

 

 

*1:現在もワークショップ参加者有志によって継続して開催されているそうです。

*2:たぶんアドリブパートじゃないかと思うんですが、態度と行動をあべこべに組み合わせるという練習の時に、トーマスさんが「すっごくシャイなイスラエルの警官がパレスチナの人を逮捕するところ」というお題を出し、Faisaiさんが難なくそれに応えてしかも笑いを取った時に一番ぎょっとしました。でも私も笑いました。

*3:私はバス移動だったのでセーフ(バスは想像以上に今回丈夫だった)。でも、帰りの劇場からバス停までの人気のなさと車の少なさに、ここで倒れたらまず助けこないな…とふとよぎりました。

Network directed by Ivo van Hove, adapted by Peter Hall at National Theatre

観劇日:2018年2月20日

 

 みんな大好き(?)ホーヴェの新作。1976年公開の同名映画の舞台翻案です。アカデミー賞で脚本賞初め複数受賞しており*1、すぐ手に取れる作品だと思うのであらすじは割愛(舞台版はストーリーはほぼ変えず、周辺キャラクターの造形やSNSの登場、テレビ局の機材関係(でも局内は黒電話使ってた)の設定がアップデートされている)。

 テレビ局のバックステージものの形を取ったマスメディア風刺であり、他方主人公ハワード・ビールに目を向ければアメリカ的中年(壮年)クライシスドラマであり、もともとがとても面白い作品なので、いかようにも料理をしてどうぞ、という感じ。ホーヴェの武器でもあるカメラや映像の使用が活きる設定で、実際にこれでもかと活用していたけれど、個人的にはそれが仇となったように思う。

 テレビ局のスタジオ、←を撮影するテレビカメラ(作中で「テレビに放送される」映像)、←さらにこれらを撮影するメタな視点のカメラ(観客はスクリーンでこれを見ることができる)の三段構造を客席から観るわけだけれど、この構造自体はモキュメンタリーと変わらないのではと思う。つまり、観客に、自分の見ているものはフィクションをフィクションの体で撮影した「リアルな」映像で、視点が同一化するのはメタなカメラ、という感覚を与えるだけであれば、舞台である必要は特になくて、映像でよりうまくこの感覚を機能させることのできる人はいるだろう。もちろん、カメラ映像以外にも舞台上にアイキャッチ的な動きや装置はあるのだけれど、ブライアン・クランストンのモノローグでクランストンのアップだけ映してたらそりゃ映像しか観んだろう…というような、キーキャラクターの見せ場を映像に集中させてたのは、確かに観やすいけど、ちょっとつまらない。

 では舞台の効果ってどこにあるのとなると、ビールの新番組が始まる後半部で、番組観覧と実際の舞台の観客が重ね合わせて演出される。が、この段階に入ると先のメタカメラがあまり目立たなくなってしまっていて、局スタジオ、テレビカメラ、観客という別の三段構造にすり替わるだけになってしまう。これがお前たちだぞ、という風に観客席に向けてカメラを向けるという演出もあるにはあるが、これは(これほど露骨ではないにせよ)原作映画にもあるし、何より今のテレビ番組でこの手法はもはやありふれている。

 こうした映像の使い方と、おそらく今回肝になるマスメディアとポピュリズムのテーマが、それぞれは強調されるもののあまり繋がっていない。そもそも、中盤のクライマックスであるビールの言葉を視聴者が叫びだすシーンでは、バズったSNSを模した映像がその視聴者像に使われており、客席に対しての扇動ではない。預言者となったビールの番組に盛り上がるのは閲覧席=観客席という形にはなっているけれど、盛り上げる役割は前座のシーン(キメ台詞言わせたり、拍手の指示をしたり)に拠るところが大きい。映像の使用、とくにメタな視点の活用が(当たり前っちゃ当たり前だが)逆に没入を妨げていて、エンターテイメントとしての面白さはあっても、昨今の政治状況においてのメディアへの没入のやばさというのは感じなかった*2

 悪い意味で、事態を客観視出来てしまう演出だった。没入させる方向にせよ、強引に距離を取らせるにせよ、もっと観客に余裕がなくなる方法はありそうな気がするけれど。あとはまぁ、なんというか、カメラなし縛りでもっかいやってみて、というのが正直な感想かも。

 主役のクランストンはとても良かったです。役にとても合っていた。翻案台本は、映画と両方観た感じでは違和感なく、スムーズな展開。(ダイアナとマックスのロマンスは省いても、と思わなくはないけど、映画でもウェイト重いし仕方ないかな。)

 こんだけいろいろ書いておいて無駄なフォローかもしれませんが、なんだかんだ鑑賞中は決して退屈しなかったし、エンタメとして面白い作品でしたよ。

 

*1:ちなみに主演男優賞を獲ったピーター・フィンチはノミネート直後に急死、例外的な死後受賞となったそうで、ちょっと作品とドラマが呼応してる。

*2:映像だけではなく、席数限定の高級レストラン席の設置や、カーテンコール後の歴代米大統領就任式映像(当然ラストはトランプで、お客さんはブーイング)も、あまり良い仕掛けではないと思う。わかりやすすぎる批判的言及はかえってポピュリズム自体に寄与すると思うので。

The Believers Are But Brothers by Javaad Alipoor at Bush Theatre

観劇日:2018年2月3日19時半

演出:Javaad Alipoor and Kirsty Housley

 

 2017年のエジンバラ・フリンジファースト受賞作。ISIS、極右/オルトライトといった過激政治思想とインターネット、SNSの融合を、実際に観客にWhatsAppを利用させて*1、舞台上の語りと交錯させつつソーシャルメディアを通じてのインタラクションを体験させるパフォーマンス。ISISへ勧誘されるムスリムの若者や4chanで流布するプロパガンダや炎上など、いくつかのエピソードが作品の中心となっている。

 取り立てて劇的なエピソードがあるわけではなく、特に極右の炎上事案に関しては日本語圏でも似た話題がかなりあるので、そういう意味での新しさはあまり感じず。WhatsAppも、 パフォーマーから観客へ送られるメッセージが多く、観客からパフォーマーへ、あるいは観客同士のインタラクションとしてはあまり機能していない。というか、送られてくるメッセージを読む、という方向に使われがちで、事実上語りの形のバリエーションに過ぎなくなっている。(とはいえ、ISIS勧誘の一連のやり取りをスマホ上で眺めるのは、やはりちょっとぞっとします。)4chanを初めとするインターネット上の事件もエピソードの一つに過ぎず、もしあの種の大型掲示板の形式も上演に取り入れられたら、個人間で使うSNSとの対比が面白かったかもと思う。ただネット文化への距離やリテラシーは、世代を筆頭に様々なファクターが絡むので、これらを衝撃的だと思う観客がいてもそれはそれで驚きはないけれど。

 そもそも、ネット文化に対する感覚自体が作者であるAlipoorと私の認識が結構ずれているように思われ、私自身はSNSを通じたISISの勧誘と大型掲示板のフェイクニュースや炎上を同列に語るのはかなり難しいだろうと考えている。個別のメディアに特有の(または有効な)アピールの方法はその内容次第で違うわけで、ましてアプリを通じた観客参加を促すならなおのこと、エピソード全てをインターネット上の事としてひとくくりに語るよりかは、いずれかのケースに特化したパフォーマンスの方が切れ味は良かったように思う。(WhatsAppのグループで極右キャンペーンの作戦を話し合うというエピソードも出てくるんですが、そしてこれは実際にあり得るだろうと思うのですが、むしろ閉じたグループ内では陰謀めいた話はいくらでも出来るだろうと、深刻さが逆に欠けてしまっていたように思います。)あと、これは全く個人的な感覚だけれど、今日本のネット文化だと、もはや2ちゃん的な大型掲示板って過去のものになりつつあって、今やツイッターが不特定多数へ発信するメディアとしては一番力があるように感じている。*2英語圏で今どこまで4chanが影響力があるのか私はあまりよくわかってないのだけれど、ローカルな感覚の差も印象に影響したように思う。

 テーマはとてもアクチュアルだし、アプリを使うというアイデアも面白いし、もっとそれらが活きるのかなと思ったけど、個人的には惜しいという感じ。ただ、質が低いわけではないし、政治的にとても誠実な作品だった。

 

*1:舞台で使用するチャットグループに参加するかは任意(チケットの受付時に訊かれた)。開場中、客席の写真をアップしているお客さんがちょいちょい。劇中かなりミーム等写真や画像のの投稿が多く、私はスマホの充電とパケットの残り使用量にちょっと冷汗でした…。

*2:この作品見た時ちょうど吉野家コピペの炎上があってタイムリーでした。

Beginning by David Eldridge at Ambassadors Theatre

観劇日:2018年2月3日15時

演出:Polly Findley

 

初エルドリッジ。*1

パーティ後に居残った男女二人のミドルエイジロマンスな二人芝居。特別目立った仕掛けがあるわけでもなく、笑いもそこここに散りばめられていて、良質な会話劇という感じ。(しかし私はこの笑いとるシーンが全くツボにはまらず(周囲のお客さんはウケてる)根本的なユーモアのセンスが彼とずれている、という認識に現在のところ至っております。)

今どきっちゃ今どきだけれど、恋愛関係への発展を妨げる要因は男性の側にあり、女性の側が関係をリードしようという展開は、個人的には嫌いではないものの、この作品の状況では微妙に思える。バリアの一つが男性サイドの性行為(とおそらく望まぬ妊娠)への抵抗なのだけれど、無理して一夜限りでどうにかせんでも、パーティで酒入ってんだし、酔いを醒まして後日仕切り直しで良くないか?と、自分が笑いに乗れないせいか、妙に冷静に考えてしまう。

「弱者男性」フォローというと言いすぎかもしれないが、とても現代的な(また都会的な)男女観と、定番鉄板なヘテロロマンスの折衷案のような展開で、その意味でとても今風だと言えると思うけれど、個人的にはこういう関係ってつまらないと思うのよね、とぼんやりする鑑賞後。男のありようが変わっても、昔ながらのロマンスが上手くいくっていうのはちょっと出来過ぎた話だと思う。

基本的に、知らない作家の作品は良し悪し好みを問わずとにかく3本観て、その後追っかけるかどうか決めるというのが信条なので、あと2本は観ますエルドリッジ。

 

追記:唐突に思い出したので。ちょっと話題は飛ぶんですが、今(2018年2月14日時点)で  というイラストお題 *2 のタグがツイッターで流行っていて、これめっちゃ面白いなと思いながら眺めてるんですが。ここに出てくるような理想の女性/母親像や(すなわちスーパーウーマンかつマッチョ思考ではないシングルマザー)、このタグのイラスト群に父親的存在(魔女の恋人やパートナーさえ出てこない)が根本的に欠けてることの重要性に関わるような異性愛関係のオルタナティヴなヴィジョンってこの芝居にないんですよ。ドラマの生成に男女の対が必要なのが前提になってる。そこが多分、今っぽいけどつまらないって感じる大きな理由だと思う。

 

 

 

 

*1:正確にはA Thounsand Stars Explode in the Sky(邦題は『千に砕け散る空の星』)の日本公演を観ているので、初対面ではないけれど、単独作品としては。

*2:不老不死の魔女が男児の捨て子を拾い育て、その子が大人になって魔女と二人で幸せに暮らしているという設定で二枚以上(子の成長前と成長後)のイラストをアップするもの。設定のバリエーションは広がってるんですが(動物や魔物を拾ったり、女児を拾ったり、魔女との恋愛関係を匂わせたり、魔女狩りを絡めたり)、男性魔法使いが男児を拾うというパターンは見つからない。タグ分けてるのかな。

Amadeus by Peter Shaffer at National Theatre

観劇日:2018年1月27日14時

演出:Michael Longhurst

*2016年に上演されたプロダクションの再演です*1。(今年のNTliveで上演されるのは2016年上演時のものです。)

 

 年明けからこっち課題の締め切りに追われ、芝居どころかまともに外出もしてねーわ、という1月でしたが、ようやくひと月ぶりに、新年最初の観劇へ。サリエリに涙する三時間でした。

 今回の発見は、この物語は結局のところ、サリエリの独り相撲でしかないということ。モーツァルトとのライバル関係とか、サリエリの信仰の問題とか、才能と人間性の間の深い溝とか、語るべきテーマはたくさんある作品だけど、今回の公演では徹底して、サリエリの視点に立っていて、彼にしか感情面でのフォーカスが当たらない。例えば二幕は結構モーツァルトに軸があるはずなのに、彼の困窮はドライに扱ってて、激しい嫉妬を押し殺すようなサリエリが前面に出てくる(物理的にもそうで、サリエリは舞台前方、モーツァルトは舞台奥によくいる。これは奥から客席へ向かって照らされる照明とも重なってて、強い光へ向かうモーツァルトという構図が決め手にもなってる)。つまり、モーツァルトやサリエリの信じる神様が実のところ何を考えているのか、サリエリのことをどう思っているのか、本作的にはどうでもいい。でもサリエリは、モーツァルトは驕っていて不真面目な人間だという評価を変えることはないし、神は自分を裏切ったのだと疑わない。当然のことなのだけど、人の気持ちなんて本当はわからないし、いくら推測したところで相手は全然違うことを考えていたなんて良くある話なわけで。でも、人は他人の言動を気にするし、ありもしないことまで深読みをするし、人知を超えたことがあり得るのだ、とも考えてしまう。だからサリエリの中で嫉妬や憎しみが育っていく過程は、結構あっけない。他方で、聞こえてくるモーツァルトの音楽は自分の感覚に訴えてくるもので、その感動もまたサリエリが偽れない感情である。サリエリの「平凡さ」はそこにあるのだ、と突き付ける上演で、でも多くの人は(たぶんモーツァルトさえも)そういう葛藤を多かれ少なかれ抱えてるものだろうと思う。強烈なアイデンティフィケーションを促す構成に、抗えなかった(というかサリエリみたいな人物造形がそもそもツボなんですわ)。

 とはいえ、物語全体の語り手でもあるサリエリの客観的な視点もきちんと残してある。モーツァルトの破天荒が意外にあっさりと見えるのは、この語り手ポジションの機能のためでもあるだろう。宮廷に仕えていた当時と、その数十年後死を目前にして回顧する現在の、二人のサリエリが多重的な構造を生んでいる。だからこそ、今回の演出のおそらく一番の肝である一幕ラストシーンが、この物語はサリエリのものですので!という印象を決定的にする。

 一幕ラスト、モーツァルトの妻コンスタンツェがサリエリに、夫への仕事の紹介を頼みに来る。サリエリは、彼女とモーツァルトへの侮辱と自身の欲望のために、彼女に性的関係を持ちかける*2。この時、コンスタンツェはモーツァルトの楽譜を持ってきていて、彼の才能を見てほしいと預けていく。写しのない手書きの初稿原稿に全く修正がないこと、その譜から聞こえてくる音楽の素晴らしさに驚愕しつつ、サリエリはその譜を破り捨てる。これ、戯曲にはない指示で*3、かつ二幕冒頭ではサリエリはコンスタンツェに楽譜を返しているので、語り手の方のサリエリが楽譜を破ったのだとわかる。感情的な宮廷でのサリエリと、それと距離を取るように置かれる老年のサリエリが、しかしながらこのワンシーンで見事に(そしてまた醜くも)混ざりあってしまう。

 映画の方だと、モーツァルトの足を引っ張るために暗躍しまくるサリエリだけども、舞台ではどちらかというと傍観者。むしろ同僚の貴族たちが彼を貶めようと腐心している。(例外は『フィガロの結婚』初演に際する入れ知恵でしょうか。)思いのほか二人の接点は描かれず、言い換えればこれは「ライバル」という関係でさえなく、サリエリが自分の後輩に対してひたすら負の妄想を抱き続けただけ、ということにすぎない。モーツァルトは貧困のすえ病で夭折し、サリエリは宮廷作曲家として華々しい生涯を送る。同時代の貴族や皇帝さえ碌に理解しなかったモーツァルトの才能を理解したことを誇ればよいのにと思う反面、どれほど世俗的に成功しても自分には届かない領域があることを認めるのは苦痛以外の何物でもない。

 今回、サリエリを演じたLucian Msamatiは黒人で、オーケストラ含め有色人種の役者、演奏者のキャスティングが少なくなかった。(ただし、宮廷の王族貴族はがっつり白人。でも、貴族の一人に女性がキャスティングされてた。)ポスタービジュアルも印象的で、これってやっぱ黒人キャストとしての解釈があるのかしら*4、と期待していたのだけど、いい意味でそれは裏切られた。全く、サリエリが黒人であるということへの演出的な言及がないのだ。それは決して人種の問題をないがしろにしているわけではなくて、むしろサリエリがものすごく世俗の事柄に執心することは、モーツァルトの天才的な作品の前にも、神への信仰の前にも、全く無意味であるということを逆説的に示していた。私はこういう人類みな平等的な解釈は基本的にあまり良いとは思わないのだけど、この作品においては、人の考えうる差異など取るに足らないのだというメッセージは、強く響くと思う。

 音楽的素養のまるでないわたくしですが、生オケはやっぱり良かった。一部ジャズ風のアレンジがあったりもして、音楽劇としても堪能しました。私でさえ知ってる曲がたくさんあったし、というとサリエリの不興を買いそうだけれど。

 

*1:主要キャストや演出に大きな変更はなし。トランスファーやツアーでなく、同じ劇場での再演なのですが、これイギリスだとあまりないパターンだと思いますが、どうなんでしょう。日本だと、1~2年明けて同じプロダクションチームで再演やツアー公演って時々ありますが。

*2:勢い余って映画版を見直したんですが、映画だとこのやりとりが(クリスチャン的な不貞が)、サリエリが狂っていく重要なポイントになっているように思う。

*3:ただ、シェーファーはこの作品、上演のたびに改訂を重ねているので、どこかのバージョンでこのシーンがあったのかもしれません。というくらいには、ものすごくはまっていた解釈でした。レビューを漁れてないのですが、この場面に言及したものはありそう。

*4:既存戯曲のリヴァイヴァルで登場人物の(作中の設定や作品が発表された時代から想定される)人種や性別と異なるキャストを配するのはもう全然珍しくはないと思うのですが、作品解釈におけるキャスティングの比重って、同じ英語圏でも英米でかなり違うように感じます。アメリカだと、特に人種関係のキャスト変更があるとそこに的を絞った批評が良く出てくるように思うのですが、イギリスは良くも悪くもあまり深く突っ込まないというか、俳優の雇用平等みたいなプラクティカルな側面が重要だと捉えられているような気がします。個人的な印象にすぎませんが。