The Great Wave by Francis Turnly at National Thatre

観劇日:2018年3月17日19時半

演出:Indhu Rubasingham

 

 北朝鮮による拉致問題を正面から取り上げた政治サスペンスドラマ*1。ポリティカルな作品に強いTricycle Thaetreとナショナルシアターの製作で、両劇場による共同製作は今作が初とのこと。作家のFrancis Turnlyは日系アイルランド人、ということに(一応)なるのでしょうか。*2 Tricycleのレジデンスを経ての最新作になるわけだけども、キャリアを見る限り本格的にデビューしてまだ数年。それでナショナルシアターで(一番キャパの小さいDorfmanとはいえ)新作発表とは、かなりの抜擢ではないかと思います。

 横田めぐみさんをモデルとした、北朝鮮に拉致された少女とその家族の運命をクロノロジカルに描いていく。嵐の日、些細な姉妹喧嘩から家を出たハナコが海岸で行方不明となり、姉レイコと母親は、幼馴染の青年とともにその生涯をかけて彼女の行方を探し求める。一方、死んだと思われたハナコは北朝鮮軍に身柄を拘束されスパイ養成に携わる。やがて結婚し子どもを産み、朝鮮人としてかの地で暮らしていく。レイコを始めとする拉致被害者の関係者らによって事件の真相が少しずつ明らかとなり、ついにはこの問題が日朝外交の重要な交渉事となるわけだが、被害者たちの帰国日にハナコが戻ってくることはなく、その代わり彼女の娘がレイコ達を訪れる。

 拉致問題についてどう思うよをいうのをいったんカッコに入れた上で感想を書くとすると、2014年のオリヴィエ受賞作であるLucy KirkwoodのChimericaとかなり雰囲気やテーマの扱い方が近い。これは天安門事件に現代の視点から取り組んだ大作で、後期資本主義と米中関係、検閲とジャーナリズムといった問題に深く切り込みながらも、推理サスペンスのテイストでエンターテイメントとして仕上げている*3。(オリエンタリズム、という言葉が正しいかちょっとわからないのだが)アジアの現代史や政治的事件、往々にして欧米では比較的知られていない事柄をサスペンス仕立てのドラマにすることの良し悪しは判断に迷う。ただ、私の知る限り、拉致問題をプロパガンダではなく中心テーマとする(ある程度の規模で製作された)日本の作品はおそらくまだないはずで*4、そうした作品を作るのが現状難しいだろうというのも想像に難くない。当事国以外でしか作れないというのはよく理解できる(実際Chimericaはこのパターンでしょう)。

 こっちに来てから政治的なテーマを取り上げた作品を観る機会が格段に増えたわけだけれど、今回の印象はこれまで観た作品とは逆で、正直なところ、これはドラマでなくてもいいんじゃないだろうか、とまず浮かんだ。おそらく、引っかかっているのは北朝鮮でのハナコの人生の描き方で、当然ながら知りようがない状況は想像で埋めざるを得ない。その描写自体(冷酷な独裁国家に暮らすからといってその住民がみな非人間的なはずはない)は妥当だと思いながらも、フィクションだなという感覚が非常に強かった。そんな簡単にかの地を描けるのだろうかという疑念がどうしてもぬぐえないのだ。拉致問題の一連の出来事を「ドラマチックだ」と興奮するある種の無邪気さのようなものが(その典型はNTの広報だと思うのだけれど)強く違和感として残り、しかしその感覚もまた、私が他国の歴史や政治を扱った作品を観て「楽しんで」きたことを思うとブーメランのように突き刺さる*5。だからといって、フィクションは限界あるよねとか、「ドラマ」ではないアプローチをもっと試みるべきとか、そういう風にも思わないのだが。テーマの扱いの難しさ、政治事件をドラマタイズすることのある種の倫理観のようなものや、私自身の違和感の正体が何なのか深く考えている。

 決してつまらなかったわけではなくて、多少スピーディすぎるきらいはあるけれど、良く書けている戯曲。シンプルな美術とスマートな引き算の演出で、展開のわりにあまり湿っぽい感じがなくて、そこが逆にクライマックスのビデオレターのシーンを際立たせている。レビューを見る限り星4つが並ぶ高評価だけれど、その評価に値するクオリティだと思う。

 日本が舞台となる、という点でのオリエンタリズムは個人的にはあまり感じなかった。全体的に削ぐ方向の美術なので、記号的な日本ぽさは上手く消えてた気がする(ちょいちょいオリガミ出てくるのはどうかなとは思ったけども)。役者さんは全員アジア系。キャスティングの人種問題も含め、この辺りはきちんと誠実に作られている。

  Turnly、キャリアとしてはもちろんこれからが勝負どころ、という人なので、今後の作品に注目したいなと思う。インタビュー読む限り、やはりアイデンティティの問題は今後も核となるみたい。

*1:おそらく確信犯的に、ナショナルシアターの広報はわりと意図的にサスペンス側面を強調していたように思います。(少なくともウェブサイトを見る限り、実際の事件に基づくといった情報はほぼない。)拉致問題自体がイギリスではあまり知られていないようなので、最初にドラマチックな側面を打ち出すのは戦略としてはありかと思いつつ、でも例えばイギリスの作品で中東問題扱う時にこういう広報やったらアウトじゃないか?とも思う。この種の具体例が他にないので、判断にしにくいのですが。

*2:お父さんが北アイルランドの人、お母さんが日本の人で、自身は'a Japanese Ulsterman' と認識している、とのこと。ガーディアンにインタビューがあります。

'I didn't fancy being stuck in North Korea': the stormy thriller by a Japanese Ulsterman | Stage | The Guardian

*3:Chimericaはアルメイダの製作。休憩込みで三時間越えとかではなかったか。当時のKirkwoodのキャリアの若さも今作のTunelyとちょっと似ている。

*4:もしご存知でしたらツイッター経由とかで教えてください。

*5:これ、私はChimericaにも覚えがあって、例えば作品後半の公安警察の厳しい尋問場面。それが実際にあり得るかどうかとは別の次元で(というか現実にはそうした悲惨なことが起こっていると思うんですが)芝居臭さみたいなものを感じた記憶がある。

The Birthday Party by Harold Pinter at The Harold Pinter Theatre

観劇日:2018年3月17日14時半

演出:Ian Rickson

 

 『バースデーパーティ』の上演って観たことなかったのよねというのと、ピンターは卒論で扱ったので個人的な思い入れも大きいのと、あとトビー・ジョーンズ*1がスタンリーだってので、観てきました。Rickson演出なら大外れもないだろうしと。

 ブログ書くので調べたところ、これ初演1957年で60年前かよ!と今さらおどろいている。確かに、この作品で起こる出来事はもはや不条理ではなくて、ダークコメディとして消化出来るというか、現代ではより恐ろしいことがあり得るだろうという想定はそれほど難しくない(というか、まぁあるし)。もっと言えば(そりゃ60年経ってりゃ当たり前なのだけど)ピンターの特に初期作品はもう古典になっていて、今作の詳細までは知らなくともピンター作品がどういうポイントで評価されてきたかというのは、なんとなく程度には共有されているわけだ。そういうことを了承済みでの演出だった。

 全体としてミステリー的なニュアンスはほぼ消えていて、むしろ各登場人物や設定をカリカチュアライズしてしまう、ある意味ではベタな演出。登場人物の衣装が典型的*2だったが、特に美術が面白い。遠近法がきつく効いた昔ながらのダイニングルームで、壁紙や家具、調度品への気配りのわりに妙に殺風景な感じ。昭和の洋風シルバニアファミリーのおうち、という例えで伝わりますかね。そういう象徴的なアイテムで、作品が舞台上の記号に沿って展開していくよ、とあらかじめ提示したうえで、役者の技量はエンターテイメントへ振るという判断。

 このミニチュア模型っぽさ、というのか、舞台となる宿屋の一日を他人事のようにのぞき込んでいる感覚は、ピンターの理解としては個人的には新鮮だった。実際、作品自体はコメディとしてとてもよくできている作品。達者な人たちがこういう演出の中でやれば、深刻に構えなくとも観れるのだというのは、ピンターとは社会の不条理や人間の政治的な関係性を描いた人、というところから英演劇の勉強を始めた者としては、発見でもある。

 もちろんエンターテイメントになることで無くなるものもあって、例えばスタンリーのフラジャイルな感じは戯曲を読んだ印象よりも明らかに弱まっているのだが(つまりそれは彼を被抑圧者と見る解釈をいわば除いているわけで)そこはやっぱりまだ政治的に読む可能性があるのではという考えが捨てられない。*3サタイアとかポリティカルコメディの古典的名作が時代を経て寓話となっていくことの是非は、もはやこの作品で起こる事態が不条理ではないとはいえ、私自身は結構揺れている。

 鑑賞中は楽しみつつ、観終わって反芻することも多い作品だった。まぁでも、日本の大学で英文学の中でピンターを学ぶとものすごく最近の作家という印象があって(なにせ教科書のスタート地点はベオウルフ)なんとなくその印象を引きずって今に至るのですが、デビューは60年以上も前、今作も彼の名を冠した劇場での公演なわけで、そりゃまぁ歴史上の作品となってもいくわなぁとぼんやり。もちろん、ピンター作品が古びるというわけではなく、でもどうアップデートするかが、まさに今のような時代では鍵ですよね。

*1:好き。出演作の一押しはBBCのコメディドラマ Detectristsです。見て。

*2:真っ黒で常にしわのないスーツとか、ベストやシャツのくたびれ感や妙にクラシックなデザインとか、パーティドレスのださビビッドな色合いとか、人となりがすぐわかるファッション。

*3:スタンリーは結構キャラクターとしては曖昧だとは思うんで一概に抑圧(だけ)されているとも言えないのですが。『ダム・ウェイター』の二人ほどはっきりと下っ端の立場にいるわけではないし、宿屋の人々との関係も『管理人』の三すくみのそれに近いようで微妙に均衡が崩れてもいるし。

Showtime from the Frontline by Mark Thomas at mac

 観劇日:2018年3月2日20時

 

 マーク・トーマスが2014年にパレスチナ、ジェニンの難民キャンプ内の劇場で行ったスタンダップコメディのワークショップが今作の軸。表現活動に対して厳しい統制が敷かれる状況下、囚人たちによるハンガーストライキとその支援デモの最中に「コメディなんて」と白い目で見られつつ、ワークショップの締めくくりに生徒たちの作品発表の場としてコメディクラブ*1を開催するまで、をトーマスが語る。これと並行して、ワークショップでの教え子であるFaisal Abu Alhayjaa と Alaa Shehadaがパフォーマーとして加わり、舞台経験もバックグラウンドもバラバラな生徒たちとのワークショップ風景、トーマスと現地の人々それぞれの視点で語られるパレスチナの現状(と両者のずれ)がスキットやスタンダップの形をとって語られていく。

 これ笑っていいの…?というラインを狙うのが政治ネタの理想だと思うのですが、いやこれ笑えないでしょ、というエピソードは少なからずあり、それでも三人のデリバリースキルは素晴らしくて、深刻になり過ぎずでもむやみに明るすぎずという緊張感の中それらのジョークにも笑ってしまった。*2観劇中ふと思い浮かんだのは、去年観たThe Jungle(もちろん設定される状況は違うものの)。どうしようもなく凄惨な出来事でかつ自分には知りようのないことに、どうすれば舞台を通じてアクセスできるのだろうと考えた時に、The Jungleがある種イマーシブな形をとったのだとすれば、今作はコメディという形式を通じて観客にエピソードと距離を取らせ、我が事にさせない方向に仕向けている。とはいえ、やっぱりしんみりしたり泣けてしまう場面はあって、無事開催されたコメディクラブの様子を語るラストでは、映像で実際の生徒たちのスタンダップの一部を流し、FaisaiとAlaaは実際に自分の持ちネタをやる。ネタに笑いつつ、その様子はやっぱり胸に来る。同情からくるものではないと思う。

 この日は電車が止まるほどの寒波と豪雪で*3、バーミンガム市街地の劇場はみな公演キャンセルという中、かなり強引な上演決行。実際、三分の一以上のお客さんが来れないという状況だった。トーマス自身がこの件については上演前もツイッターでも説明をしていて、作中にも語られるのだが、大きな理由はパレスチナからのイギリス興行ビザがものすごく複雑で追加公演等の日程変更が出来ないこと。実際に彼らのパフォーマンスを観れば、ここまできて舞台をやれないってのはないよなぁ、とショーマストゴーオンの精神を思い知る。

 国連職員(だったかな?)らと車で移動中、些細な事でイスラエルの警察官の尋問にあい、その物々しい態度に思わず笑ったら相手がとても苛立った、というエピソードを、近年の政治風刺にまつわる様々な事件を交えつつ、トーマスが語る。権力は笑いを嫌がる、だからコメディをやる意味があるのだ、と語る彼はとてもかっこよくて、私がコメディやお笑いを好きな理由もそこだよ、と思いました。

 

 

*1:現在もワークショップ参加者有志によって継続して開催されているそうです。

*2:たぶんアドリブパートじゃないかと思うんですが、態度と行動をあべこべに組み合わせるという練習の時に、トーマスさんが「すっごくシャイなイスラエルの警官がパレスチナの人を逮捕するところ」というお題を出し、Faisaiさんが難なくそれに応えてしかも笑いを取った時に一番ぎょっとしました。でも私も笑いました。

*3:私はバス移動だったのでセーフ(バスは想像以上に今回丈夫だった)。でも、帰りの劇場からバス停までの人気のなさと車の少なさに、ここで倒れたらまず助けこないな…とふとよぎりました。

Network directed by Ivo van Hove, adapted by Peter Hall at National Theatre

観劇日:2018年2月20日

 

 みんな大好き(?)ホーヴェの新作。1976年公開の同名映画の舞台翻案です。アカデミー賞で脚本賞初め複数受賞しており*1、すぐ手に取れる作品だと思うのであらすじは割愛(舞台版はストーリーはほぼ変えず、周辺キャラクターの造形やSNSの登場、テレビ局の機材関係(でも局内は黒電話使ってた)の設定がアップデートされている)。

 テレビ局のバックステージものの形を取ったマスメディア風刺であり、他方主人公ハワード・ビールに目を向ければアメリカ的中年(壮年)クライシスドラマであり、もともとがとても面白い作品なので、いかようにも料理をしてどうぞ、という感じ。ホーヴェの武器でもあるカメラや映像の使用が活きる設定で、実際にこれでもかと活用していたけれど、個人的にはそれが仇となったように思う。

 テレビ局のスタジオ、←を撮影するテレビカメラ(作中で「テレビに放送される」映像)、←さらにこれらを撮影するメタな視点のカメラ(観客はスクリーンでこれを見ることができる)の三段構造を客席から観るわけだけれど、この構造自体はモキュメンタリーと変わらないのではと思う。つまり、観客に、自分の見ているものはフィクションをフィクションの体で撮影した「リアルな」映像で、視点が同一化するのはメタなカメラ、という感覚を与えるだけであれば、舞台である必要は特になくて、映像でよりうまくこの感覚を機能させることのできる人はいるだろう。もちろん、カメラ映像以外にも舞台上にアイキャッチ的な動きや装置はあるのだけれど、ブライアン・クランストンのモノローグでクランストンのアップだけ映してたらそりゃ映像しか観んだろう…というような、キーキャラクターの見せ場を映像に集中させてたのは、確かに観やすいけど、ちょっとつまらない。

 では舞台の効果ってどこにあるのとなると、ビールの新番組が始まる後半部で、番組観覧と実際の舞台の観客が重ね合わせて演出される。が、この段階に入ると先のメタカメラがあまり目立たなくなってしまっていて、局スタジオ、テレビカメラ、観客という別の三段構造にすり替わるだけになってしまう。これがお前たちだぞ、という風に観客席に向けてカメラを向けるという演出もあるにはあるが、これは(これほど露骨ではないにせよ)原作映画にもあるし、何より今のテレビ番組でこの手法はもはやありふれている。

 こうした映像の使い方と、おそらく今回肝になるマスメディアとポピュリズムのテーマが、それぞれは強調されるもののあまり繋がっていない。そもそも、中盤のクライマックスであるビールの言葉を視聴者が叫びだすシーンでは、バズったSNSを模した映像がその視聴者像に使われており、客席に対しての扇動ではない。預言者となったビールの番組に盛り上がるのは閲覧席=観客席という形にはなっているけれど、盛り上げる役割は前座のシーン(キメ台詞言わせたり、拍手の指示をしたり)に拠るところが大きい。映像の使用、とくにメタな視点の活用が(当たり前っちゃ当たり前だが)逆に没入を妨げていて、エンターテイメントとしての面白さはあっても、昨今の政治状況においてのメディアへの没入のやばさというのは感じなかった*2

 悪い意味で、事態を客観視出来てしまう演出だった。没入させる方向にせよ、強引に距離を取らせるにせよ、もっと観客に余裕がなくなる方法はありそうな気がするけれど。あとはまぁ、なんというか、カメラなし縛りでもっかいやってみて、というのが正直な感想かも。

 主役のクランストンはとても良かったです。役にとても合っていた。翻案台本は、映画と両方観た感じでは違和感なく、スムーズな展開。(ダイアナとマックスのロマンスは省いても、と思わなくはないけど、映画でもウェイト重いし仕方ないかな。)

 こんだけいろいろ書いておいて無駄なフォローかもしれませんが、なんだかんだ鑑賞中は決して退屈しなかったし、エンタメとして面白い作品でしたよ。

 

*1:ちなみに主演男優賞を獲ったピーター・フィンチはノミネート直後に急死、例外的な死後受賞となったそうで、ちょっと作品とドラマが呼応してる。

*2:映像だけではなく、席数限定の高級レストラン席の設置や、カーテンコール後の歴代米大統領就任式映像(当然ラストはトランプで、お客さんはブーイング)も、あまり良い仕掛けではないと思う。わかりやすすぎる批判的言及はかえってポピュリズム自体に寄与すると思うので。

The Believers Are But Brothers by Javaad Alipoor at Bush Theatre

観劇日:2018年2月3日19時半

演出:Javaad Alipoor and Kirsty Housley

 

 2017年のエジンバラ・フリンジファースト受賞作。ISIS、極右/オルトライトといった過激政治思想とインターネット、SNSの融合を、実際に観客にWhatsAppを利用させて*1、舞台上の語りと交錯させつつソーシャルメディアを通じてのインタラクションを体験させるパフォーマンス。ISISへ勧誘されるムスリムの若者や4chanで流布するプロパガンダや炎上など、いくつかのエピソードが作品の中心となっている。

 取り立てて劇的なエピソードがあるわけではなく、特に極右の炎上事案に関しては日本語圏でも似た話題がかなりあるので、そういう意味での新しさはあまり感じず。WhatsAppも、 パフォーマーから観客へ送られるメッセージが多く、観客からパフォーマーへ、あるいは観客同士のインタラクションとしてはあまり機能していない。というか、送られてくるメッセージを読む、という方向に使われがちで、事実上語りの形のバリエーションに過ぎなくなっている。(とはいえ、ISIS勧誘の一連のやり取りをスマホ上で眺めるのは、やはりちょっとぞっとします。)4chanを初めとするインターネット上の事件もエピソードの一つに過ぎず、もしあの種の大型掲示板の形式も上演に取り入れられたら、個人間で使うSNSとの対比が面白かったかもと思う。ただネット文化への距離やリテラシーは、世代を筆頭に様々なファクターが絡むので、これらを衝撃的だと思う観客がいてもそれはそれで驚きはないけれど。

 そもそも、ネット文化に対する感覚自体が作者であるAlipoorと私の認識が結構ずれているように思われ、私自身はSNSを通じたISISの勧誘と大型掲示板のフェイクニュースや炎上を同列に語るのはかなり難しいだろうと考えている。個別のメディアに特有の(または有効な)アピールの方法はその内容次第で違うわけで、ましてアプリを通じた観客参加を促すならなおのこと、エピソード全てをインターネット上の事としてひとくくりに語るよりかは、いずれかのケースに特化したパフォーマンスの方が切れ味は良かったように思う。(WhatsAppのグループで極右キャンペーンの作戦を話し合うというエピソードも出てくるんですが、そしてこれは実際にあり得るだろうと思うのですが、むしろ閉じたグループ内では陰謀めいた話はいくらでも出来るだろうと、深刻さが逆に欠けてしまっていたように思います。)あと、これは全く個人的な感覚だけれど、今日本のネット文化だと、もはや2ちゃん的な大型掲示板って過去のものになりつつあって、今やツイッターが不特定多数へ発信するメディアとしては一番力があるように感じている。*2英語圏で今どこまで4chanが影響力があるのか私はあまりよくわかってないのだけれど、ローカルな感覚の差も印象に影響したように思う。

 テーマはとてもアクチュアルだし、アプリを使うというアイデアも面白いし、もっとそれらが活きるのかなと思ったけど、個人的には惜しいという感じ。ただ、質が低いわけではないし、政治的にとても誠実な作品だった。

 

*1:舞台で使用するチャットグループに参加するかは任意(チケットの受付時に訊かれた)。開場中、客席の写真をアップしているお客さんがちょいちょい。劇中かなりミーム等写真や画像のの投稿が多く、私はスマホの充電とパケットの残り使用量にちょっと冷汗でした…。

*2:この作品見た時ちょうど吉野家コピペの炎上があってタイムリーでした。

Beginning by David Eldridge at Ambassadors Theatre

観劇日:2018年2月3日15時

演出:Polly Findley

 

初エルドリッジ。*1

パーティ後に居残った男女二人のミドルエイジロマンスな二人芝居。特別目立った仕掛けがあるわけでもなく、笑いもそこここに散りばめられていて、良質な会話劇という感じ。(しかし私はこの笑いとるシーンが全くツボにはまらず(周囲のお客さんはウケてる)根本的なユーモアのセンスが彼とずれている、という認識に現在のところ至っております。)

今どきっちゃ今どきだけれど、恋愛関係への発展を妨げる要因は男性の側にあり、女性の側が関係をリードしようという展開は、個人的には嫌いではないものの、この作品の状況では微妙に思える。バリアの一つが男性サイドの性行為(とおそらく望まぬ妊娠)への抵抗なのだけれど、無理して一夜限りでどうにかせんでも、パーティで酒入ってんだし、酔いを醒まして後日仕切り直しで良くないか?と、自分が笑いに乗れないせいか、妙に冷静に考えてしまう。

「弱者男性」フォローというと言いすぎかもしれないが、とても現代的な(また都会的な)男女観と、定番鉄板なヘテロロマンスの折衷案のような展開で、その意味でとても今風だと言えると思うけれど、個人的にはこういう関係ってつまらないと思うのよね、とぼんやりする鑑賞後。男のありようが変わっても、昔ながらのロマンスが上手くいくっていうのはちょっと出来過ぎた話だと思う。

基本的に、知らない作家の作品は良し悪し好みを問わずとにかく3本観て、その後追っかけるかどうか決めるというのが信条なので、あと2本は観ますエルドリッジ。

 

追記:唐突に思い出したので。ちょっと話題は飛ぶんですが、今(2018年2月14日時点)で  というイラストお題 *2 のタグがツイッターで流行っていて、これめっちゃ面白いなと思いながら眺めてるんですが。ここに出てくるような理想の女性/母親像や(すなわちスーパーウーマンかつマッチョ思考ではないシングルマザー)、このタグのイラスト群に父親的存在(魔女の恋人やパートナーさえ出てこない)が根本的に欠けてることの重要性に関わるような異性愛関係のオルタナティヴなヴィジョンってこの芝居にないんですよ。ドラマの生成に男女の対が必要なのが前提になってる。そこが多分、今っぽいけどつまらないって感じる大きな理由だと思う。

 

 

 

 

*1:正確にはA Thounsand Stars Explode in the Sky(邦題は『千に砕け散る空の星』)の日本公演を観ているので、初対面ではないけれど、単独作品としては。

*2:不老不死の魔女が男児の捨て子を拾い育て、その子が大人になって魔女と二人で幸せに暮らしているという設定で二枚以上(子の成長前と成長後)のイラストをアップするもの。設定のバリエーションは広がってるんですが(動物や魔物を拾ったり、女児を拾ったり、魔女との恋愛関係を匂わせたり、魔女狩りを絡めたり)、男性魔法使いが男児を拾うというパターンは見つからない。タグ分けてるのかな。