ひと月半

 金曜日に、二度目のスーパービジョンを終え、早くも当初の研究計画が迷子になっている。正直に、この点はちょっと自信がなくなってきました…と話したら、それは僕も難しいと思ってる…と返され、アイデア自体は捨てないまでも、他の要素に注力しましょうということに。

 全体的にとっちらかった状態で面談に向かったのだが(というか学部卒論時代から今まで万事整えて先生と会ったことがあっただろうか。私にとって指導教員との面談は成果報告ではなくレスキュー要請である。)とっちらかったなりに面白そうなアイデアも出てきてるよ、とポジティブなコメントをもらい、ちょっと持ち直す。

 スティーヴンスをやる上で、また今イギリス演劇をやる上で、避けて通れないのはヨーロッパ演劇との関係だ。(ぶっちゃけすごく避けて通りたかったんだけどやっぱりだめだった。)この話題、ディヴィッド・ヘアが良くも悪くもキーパーソンであるが、彼を初めとする幾名かのベテラン劇作家が、大陸ヨーロッパの舞台作品は英演劇の伝統を脅かしている、という考えを持っていることは、しばしば演劇評論の枠を超えて話題になっている。(ヘアが表立って意見を言うので彼一人がえらく目立っているけれど、この感覚を持ってる演劇関係者は実は少なくないのではないか、という気もする。気のせいかもしれないが。)

 ヘアの一連の議論に対してはすでに多くの批判があるので、ここで私が新たに言うことは特にないのだけど、ただ、大陸ヨーロッパの演出家に対するヘアの不快感の一つは、戯曲が軽視されていると思われる上演にあるようで、実はその苛立ちはわからなくもない。以前東京で観たとある古典作品の上演で、台詞をハサミで切り取ってテープでつなぎ直したみたいな舞台だなぁ、と思ったことがある。いやな意味で。もちろんそれは、その作品に対するモチベーションの持ち方が、私とその演出家とでは違うということなのだけれど、そう思えるのは観劇後時間が経ってからであって、劇場を出てすぐはむっとした気分を抱えていたのを覚えている。(私わりと戯曲中心主義なので、テキストに対してfaithfullな上演を好むタイプです。)

 積極的にフォローしたいというわけでもないのだけど、戯曲の扱いについての不満はちょっとわかる、と思いながらヘアの議論を見ている。とはいえヘアの意見に賛成できないのは、彼がかなりおおざっぱに演出美学の議論を、文化アイデンティティをずるっと通り越してイギリスの「古典」や「伝統」、はては「国家」の概念にまで結び付けてしまうところだ。ブレキジット渦中の今、なおのこと美学と政治の結びつきには慎重になるべきで、逆に言えば美学と政治が切り離せないからこそ、両者をまるごと一緒に扱うことには気を付けなければと思う。

 ヨーロッパのことを書くのなら、ヘアの引用はチャプターの冒頭だね、なんて話を(先生気が早いです)していたのだけれど、なんというか社会派演劇の重鎮をよりによってこの文脈で引くことになるかと思うと、ちょっとめまいがする。面談を終え、論文も迷子になるけど、作品だって作家だってとっちらかってるよね、とぼんやり思いつつバスに乗りシティセンター行って、最後の最後の夏物セールでシャツ買いました。十月もサマータイムも終わります。