Amadeus by Peter Shaffer at National Theatre

観劇日:2018年1月27日14時

演出:Michael Longhurst

*2016年に上演されたプロダクションの再演です*1。(今年のNTliveで上演されるのは2016年上演時のものです。)

 

 年明けからこっち課題の締め切りに追われ、芝居どころかまともに外出もしてねーわ、という1月でしたが、ようやくひと月ぶりに、新年最初の観劇へ。サリエリに涙する三時間でした。

 今回の発見は、この物語は結局のところ、サリエリの独り相撲でしかないということ。モーツァルトとのライバル関係とか、サリエリの信仰の問題とか、才能と人間性の間の深い溝とか、語るべきテーマはたくさんある作品だけど、今回の公演では徹底して、サリエリの視点に立っていて、彼にしか感情面でのフォーカスが当たらない。例えば二幕は結構モーツァルトに軸があるはずなのに、彼の困窮はドライに扱ってて、激しい嫉妬を押し殺すようなサリエリが前面に出てくる(物理的にもそうで、サリエリは舞台前方、モーツァルトは舞台奥によくいる。これは奥から客席へ向かって照らされる照明とも重なってて、強い光へ向かうモーツァルトという構図が決め手にもなってる)。つまり、モーツァルトやサリエリの信じる神様が実のところ何を考えているのか、サリエリのことをどう思っているのか、本作的にはどうでもいい。でもサリエリは、モーツァルトは驕っていて不真面目な人間だという評価を変えることはないし、神は自分を裏切ったのだと疑わない。当然のことなのだけど、人の気持ちなんて本当はわからないし、いくら推測したところで相手は全然違うことを考えていたなんて良くある話なわけで。でも、人は他人の言動を気にするし、ありもしないことまで深読みをするし、人知を超えたことがあり得るのだ、とも考えてしまう。だからサリエリの中で嫉妬や憎しみが育っていく過程は、結構あっけない。他方で、聞こえてくるモーツァルトの音楽は自分の感覚に訴えてくるもので、その感動もまたサリエリが偽れない感情である。サリエリの「平凡さ」はそこにあるのだ、と突き付ける上演で、でも多くの人は(たぶんモーツァルトさえも)そういう葛藤を多かれ少なかれ抱えてるものだろうと思う。強烈なアイデンティフィケーションを促す構成に、抗えなかった(というかサリエリみたいな人物造形がそもそもツボなんですわ)。

 とはいえ、物語全体の語り手でもあるサリエリの客観的な視点もきちんと残してある。モーツァルトの破天荒が意外にあっさりと見えるのは、この語り手ポジションの機能のためでもあるだろう。宮廷に仕えていた当時と、その数十年後死を目前にして回顧する現在の、二人のサリエリが多重的な構造を生んでいる。だからこそ、今回の演出のおそらく一番の肝である一幕ラストシーンが、この物語はサリエリのものですので!という印象を決定的にする。

 一幕ラスト、モーツァルトの妻コンスタンツェがサリエリに、夫への仕事の紹介を頼みに来る。サリエリは、彼女とモーツァルトへの侮辱と自身の欲望のために、彼女に性的関係を持ちかける*2。この時、コンスタンツェはモーツァルトの楽譜を持ってきていて、彼の才能を見てほしいと預けていく。写しのない手書きの初稿原稿に全く修正がないこと、その譜から聞こえてくる音楽の素晴らしさに驚愕しつつ、サリエリはその譜を破り捨てる。これ、戯曲にはない指示で*3、かつ二幕冒頭ではサリエリはコンスタンツェに楽譜を返しているので、語り手の方のサリエリが楽譜を破ったのだとわかる。感情的な宮廷でのサリエリと、それと距離を取るように置かれる老年のサリエリが、しかしながらこのワンシーンで見事に(そしてまた醜くも)混ざりあってしまう。

 映画の方だと、モーツァルトの足を引っ張るために暗躍しまくるサリエリだけども、舞台ではどちらかというと傍観者。むしろ同僚の貴族たちが彼を貶めようと腐心している。(例外は『フィガロの結婚』初演に際する入れ知恵でしょうか。)思いのほか二人の接点は描かれず、言い換えればこれは「ライバル」という関係でさえなく、サリエリが自分の後輩に対してひたすら負の妄想を抱き続けただけ、ということにすぎない。モーツァルトは貧困のすえ病で夭折し、サリエリは宮廷作曲家として華々しい生涯を送る。同時代の貴族や皇帝さえ碌に理解しなかったモーツァルトの才能を理解したことを誇ればよいのにと思う反面、どれほど世俗的に成功しても自分には届かない領域があることを認めるのは苦痛以外の何物でもない。

 今回、サリエリを演じたLucian Msamatiは黒人で、オーケストラ含め有色人種の役者、演奏者のキャスティングが少なくなかった。(ただし、宮廷の王族貴族はがっつり白人。でも、貴族の一人に女性がキャスティングされてた。)ポスタービジュアルも印象的で、これってやっぱ黒人キャストとしての解釈があるのかしら*4、と期待していたのだけど、いい意味でそれは裏切られた。全く、サリエリが黒人であるということへの演出的な言及がないのだ。それは決して人種の問題をないがしろにしているわけではなくて、むしろサリエリがものすごく世俗の事柄に執心することは、モーツァルトの天才的な作品の前にも、神への信仰の前にも、全く無意味であるということを逆説的に示していた。私はこういう人類みな平等的な解釈は基本的にあまり良いとは思わないのだけど、この作品においては、人の考えうる差異など取るに足らないのだというメッセージは、強く響くと思う。

 音楽的素養のまるでないわたくしですが、生オケはやっぱり良かった。一部ジャズ風のアレンジがあったりもして、音楽劇としても堪能しました。私でさえ知ってる曲がたくさんあったし、というとサリエリの不興を買いそうだけれど。

 

*1:主要キャストや演出に大きな変更はなし。トランスファーやツアーでなく、同じ劇場での再演なのですが、これイギリスだとあまりないパターンだと思いますが、どうなんでしょう。日本だと、1~2年明けて同じプロダクションチームで再演やツアー公演って時々ありますが。

*2:勢い余って映画版を見直したんですが、映画だとこのやりとりが(クリスチャン的な不貞が)、サリエリが狂っていく重要なポイントになっているように思う。

*3:ただ、シェーファーはこの作品、上演のたびに改訂を重ねているので、どこかのバージョンでこのシーンがあったのかもしれません。というくらいには、ものすごくはまっていた解釈でした。レビューを漁れてないのですが、この場面に言及したものはありそう。

*4:既存戯曲のリヴァイヴァルで登場人物の(作中の設定や作品が発表された時代から想定される)人種や性別と異なるキャストを配するのはもう全然珍しくはないと思うのですが、作品解釈におけるキャスティングの比重って、同じ英語圏でも英米でかなり違うように感じます。アメリカだと、特に人種関係のキャスト変更があるとそこに的を絞った批評が良く出てくるように思うのですが、イギリスは良くも悪くもあまり深く突っ込まないというか、俳優の雇用平等みたいなプラクティカルな側面が重要だと捉えられているような気がします。個人的な印象にすぎませんが。