Network directed by Ivo van Hove, adapted by Peter Hall at National Theatre

観劇日:2018年2月20日

 

 みんな大好き(?)ホーヴェの新作。1976年公開の同名映画の舞台翻案です。アカデミー賞で脚本賞初め複数受賞しており*1、すぐ手に取れる作品だと思うのであらすじは割愛(舞台版はストーリーはほぼ変えず、周辺キャラクターの造形やSNSの登場、テレビ局の機材関係(でも局内は黒電話使ってた)の設定がアップデートされている)。

 テレビ局のバックステージものの形を取ったマスメディア風刺であり、他方主人公ハワード・ビールに目を向ければアメリカ的中年(壮年)クライシスドラマであり、もともとがとても面白い作品なので、いかようにも料理をしてどうぞ、という感じ。ホーヴェの武器でもあるカメラや映像の使用が活きる設定で、実際にこれでもかと活用していたけれど、個人的にはそれが仇となったように思う。

 テレビ局のスタジオ、←を撮影するテレビカメラ(作中で「テレビに放送される」映像)、←さらにこれらを撮影するメタな視点のカメラ(観客はスクリーンでこれを見ることができる)の三段構造を客席から観るわけだけれど、この構造自体はモキュメンタリーと変わらないのではと思う。つまり、観客に、自分の見ているものはフィクションをフィクションの体で撮影した「リアルな」映像で、視点が同一化するのはメタなカメラ、という感覚を与えるだけであれば、舞台である必要は特になくて、映像でよりうまくこの感覚を機能させることのできる人はいるだろう。もちろん、カメラ映像以外にも舞台上にアイキャッチ的な動きや装置はあるのだけれど、ブライアン・クランストンのモノローグでクランストンのアップだけ映してたらそりゃ映像しか観んだろう…というような、キーキャラクターの見せ場を映像に集中させてたのは、確かに観やすいけど、ちょっとつまらない。

 では舞台の効果ってどこにあるのとなると、ビールの新番組が始まる後半部で、番組観覧と実際の舞台の観客が重ね合わせて演出される。が、この段階に入ると先のメタカメラがあまり目立たなくなってしまっていて、局スタジオ、テレビカメラ、観客という別の三段構造にすり替わるだけになってしまう。これがお前たちだぞ、という風に観客席に向けてカメラを向けるという演出もあるにはあるが、これは(これほど露骨ではないにせよ)原作映画にもあるし、何より今のテレビ番組でこの手法はもはやありふれている。

 こうした映像の使い方と、おそらく今回肝になるマスメディアとポピュリズムのテーマが、それぞれは強調されるもののあまり繋がっていない。そもそも、中盤のクライマックスであるビールの言葉を視聴者が叫びだすシーンでは、バズったSNSを模した映像がその視聴者像に使われており、客席に対しての扇動ではない。預言者となったビールの番組に盛り上がるのは閲覧席=観客席という形にはなっているけれど、盛り上げる役割は前座のシーン(キメ台詞言わせたり、拍手の指示をしたり)に拠るところが大きい。映像の使用、とくにメタな視点の活用が(当たり前っちゃ当たり前だが)逆に没入を妨げていて、エンターテイメントとしての面白さはあっても、昨今の政治状況においてのメディアへの没入のやばさというのは感じなかった*2

 悪い意味で、事態を客観視出来てしまう演出だった。没入させる方向にせよ、強引に距離を取らせるにせよ、もっと観客に余裕がなくなる方法はありそうな気がするけれど。あとはまぁ、なんというか、カメラなし縛りでもっかいやってみて、というのが正直な感想かも。

 主役のクランストンはとても良かったです。役にとても合っていた。翻案台本は、映画と両方観た感じでは違和感なく、スムーズな展開。(ダイアナとマックスのロマンスは省いても、と思わなくはないけど、映画でもウェイト重いし仕方ないかな。)

 こんだけいろいろ書いておいて無駄なフォローかもしれませんが、なんだかんだ鑑賞中は決して退屈しなかったし、エンタメとして面白い作品でしたよ。

 

*1:ちなみに主演男優賞を獲ったピーター・フィンチはノミネート直後に急死、例外的な死後受賞となったそうで、ちょっと作品とドラマが呼応してる。

*2:映像だけではなく、席数限定の高級レストラン席の設置や、カーテンコール後の歴代米大統領就任式映像(当然ラストはトランプで、お客さんはブーイング)も、あまり良い仕掛けではないと思う。わかりやすすぎる批判的言及はかえってポピュリズム自体に寄与すると思うので。