The Birthday Party by Harold Pinter at The Harold Pinter Theatre

観劇日:2018年3月17日14時半

演出:Ian Rickson

 

 『バースデーパーティ』の上演って観たことなかったのよねというのと、ピンターは卒論で扱ったので個人的な思い入れも大きいのと、あとトビー・ジョーンズ*1がスタンリーだってので、観てきました。Rickson演出なら大外れもないだろうしと。

 ブログ書くので調べたところ、これ初演1957年で60年前かよ!と今さらおどろいている。確かに、この作品で起こる出来事はもはや不条理ではなくて、ダークコメディとして消化出来るというか、現代ではより恐ろしいことがあり得るだろうという想定はそれほど難しくない(というか、まぁあるし)。もっと言えば(そりゃ60年経ってりゃ当たり前なのだけど)ピンターの特に初期作品はもう古典になっていて、今作の詳細までは知らなくともピンター作品がどういうポイントで評価されてきたかというのは、なんとなく程度には共有されているわけだ。そういうことを了承済みでの演出だった。

 全体としてミステリー的なニュアンスはほぼ消えていて、むしろ各登場人物や設定をカリカチュアライズしてしまう、ある意味ではベタな演出。登場人物の衣装が典型的*2だったが、特に美術が面白い。遠近法がきつく効いた昔ながらのダイニングルームで、壁紙や家具、調度品への気配りのわりに妙に殺風景な感じ。昭和の洋風シルバニアファミリーのおうち、という例えで伝わりますかね。そういう象徴的なアイテムで、作品が舞台上の記号に沿って展開していくよ、とあらかじめ提示したうえで、役者の技量はエンターテイメントへ振るという判断。

 このミニチュア模型っぽさ、というのか、舞台となる宿屋の一日を他人事のようにのぞき込んでいる感覚は、ピンターの理解としては個人的には新鮮だった。実際、作品自体はコメディとしてとてもよくできている作品。達者な人たちがこういう演出の中でやれば、深刻に構えなくとも観れるのだというのは、ピンターとは社会の不条理や人間の政治的な関係性を描いた人、というところから英演劇の勉強を始めた者としては、発見でもある。

 もちろんエンターテイメントになることで無くなるものもあって、例えばスタンリーのフラジャイルな感じは戯曲を読んだ印象よりも明らかに弱まっているのだが(つまりそれは彼を被抑圧者と見る解釈をいわば除いているわけで)そこはやっぱりまだ政治的に読む可能性があるのではという考えが捨てられない。*3サタイアとかポリティカルコメディの古典的名作が時代を経て寓話となっていくことの是非は、もはやこの作品で起こる事態が不条理ではないとはいえ、私自身は結構揺れている。

 鑑賞中は楽しみつつ、観終わって反芻することも多い作品だった。まぁでも、日本の大学で英文学の中でピンターを学ぶとものすごく最近の作家という印象があって(なにせ教科書のスタート地点はベオウルフ)なんとなくその印象を引きずって今に至るのですが、デビューは60年以上も前、今作も彼の名を冠した劇場での公演なわけで、そりゃまぁ歴史上の作品となってもいくわなぁとぼんやり。もちろん、ピンター作品が古びるというわけではなく、でもどうアップデートするかが、まさに今のような時代では鍵ですよね。

*1:好き。出演作の一押しはBBCのコメディドラマ Detectristsです。見て。

*2:真っ黒で常にしわのないスーツとか、ベストやシャツのくたびれ感や妙にクラシックなデザインとか、パーティドレスのださビビッドな色合いとか、人となりがすぐわかるファッション。

*3:スタンリーは結構キャラクターとしては曖昧だとは思うんで一概に抑圧(だけ)されているとも言えないのですが。『ダム・ウェイター』の二人ほどはっきりと下っ端の立場にいるわけではないし、宿屋の人々との関係も『管理人』の三すくみのそれに近いようで微妙に均衡が崩れてもいるし。