Top Girls at National Theatre by Caryl Churchill, dir. Lyndsey Turner

観劇日:2019年4月6日14時15分

 

 この頃はツイートでまとめた気になっちゃって、ブログ投稿が久々すぎるのですが、今作は連ツイが長すぎる、という事態に陥ったので改めて書くことにします。キャリル・チャーチルの、おそらく最も良く知られている作品であろうTop Girls (1982年初演)、リンジー・ターナーによる、ある意味での「新演出」です。

  Top Girlsは戯曲には指示がないものの、慣例になった演出案があります。ひとつは一人複数役のキャスティングで、主人公マーリーンを除いて、一幕の登場人物を演じる役者が、舞台設定が大きく変わる二幕以降の登場人物も演じるというもの。マックス・スタッフォード=クラークによる初演時の記録が現在出版されている戯曲の多くの版に掲載されており、その配役組み合わせを踏襲する場合が多いです。この点は、今回チャーチル自身が公演パンフレットにコメントを寄せており、大意としては、複数役キャスティング(doubling)の演出上の意義は確かにあるけど、この作品については(キャストの人数の)実際的な問題のためにそうなってきていた、とのこと。少なくとも彼女の知る限り、プロフェッショナルな公演では今回初めて一人一役(16名が出演)となるそうです*1

 もう一つは休憩のタイミング。これは、私も上演史をさらえてないので他のパターンも少なからずあるのかもしれませんが、私の知る限り通常2幕1場(アンジー、キット、ジョイスの場面)の後に入れるはずです。*2ところが今回は、今のウェストエンドの上演慣習からしてもかなりイレギュラーですが、2幕2場後に休憩が入ります。つまり、上演時間としては30分ほどの3幕を単体でやるという構成です。

  そのような演出プランなので、この作・演出・出演者の顔ぶれにしては、レビューの評価はわりとばらついてます*3。ただ、Top Girlsのややこしさと面白さというのは、古今東西歴史に名を遺す女性たちを集めたパーティというインパクトの大きくある種普遍的な1幕と、1980年代初頭サッチャー政権下の「キャリアウーマン」の生き様という時代も場所も非常にスペシフィックな題材を扱う2幕以降が同じ強度である点で、この40年近く前の作品を今どう解釈するのかというのは、演出プランの驚きを抜きにしても意見が様々なところだと思います。もちろん、今回のターナー演出は必然があって生まれたものでしょうし、ここまで大胆に変えてこそ今この作品が新しく意味を持ったと思います。

 ターナーの関心は割とはっきりして、キャラクターの掘り下げにはあまりエネルギーを割いていません。マーリーンどころか他の登場人物でさえ、共感できるタイプの女性像がほぼ出てこない(唯一、アンジーがレズビアンともとれる造形になっていて、それはすごく面白かったですし、共感の対象になり得る人物かなと思いますが)。私は、Top Girlsは読みようによっては女性のエンパワメントになる戯曲だと考えています。マーリーン、ジョイスやキッド夫人にしても、あるいは二条やイザベラ・バード、ヨハンナたちにしても、彼女たちの境遇に観客が自分とどこか重なる部分を見つけて、ガラスの天井に対する怒りを代わりにぶちまけてもらう、ということが出来る作品です。おそらく、少なくとも1982年の初演当時には、ロンドンでこの作品を観劇してマーリーンに自身を投影した女性は少なくないと思います。

 対して今は。1幕でテリーザ・メイを揶揄するジェスチャーが出てきて*4それが笑いを取るわけで、それでサッチャーは女性初の首相だと興奮するマーリーンの台詞が映えるはずもない。80年代初頭の「OL」たちはもはや、そんな時代もありましたね、のカリカチュアで、マーリーンが昇進によって経験する周囲との軋轢はごく一部の「トップガールズ」だけの問題ではなくなり、抑圧への共感よりむしろ、私だって辛いんだけど、という感情を逆なでする。女性の社会進出がそれだけ進んだのだと素直に喜べないのは、だから女性はもっと連帯できるはずだという解釈に容易に向かえないことです。時代の変化によってこの戯曲から新たに浮かび上がってきたのは、あなたもたいがい大変なのだろうけどでも今私の足踏んでる、という状況が互いに起こり続けるという、誰もが「トップガールズ」になれて、同時に誰も「トップガールズ」にはなれない、という矛盾この上ない現実です。

 ターナーはドラマツルギーや戯曲の構造を通して自分の読みを見せることに長けた演出家だと思うのですが、それが今回直接的に演出案変更という形に表れていると思います。最も興味深いなと思うのは、1幕のパーティと3幕のジョイス宅での晩酌をパラレルに見せようという意図が感じられるところです。3幕のジョイスとマーリーンの口論*5で、二人がテーブルにつくことがほとんどありません。かなり広く空間を使いながら、正対することを避け、各々の主張を相手のいない方向へ飛ばすというちょっと独特な対話の仕方になっています。さらに違和感を覚えるのが、直前のオフィスの美術や衣装が80年代イケてるオフィス感を過剰なまでに押し出していた半面、ジョイス宅のダイニングルームは非常に緻密なリアリズムで作られていることです。二人の食い違う対話に反し、この景色は3幕こそ現実なのだと見せつけてきます。

 このかみ合わない口論と空間のリアリティは、1幕のパーティの突飛さの裏返しのように思えます。マーリーンの昇進祝いに、古今東西歴史上の「トップガールズ」たちが高級レストランに集い華やかなパーティを繰り広げる。設定こそ夢物語のようですが、肖像画や写真、絵画、文学作品から飛び出てきたかのような彼女たちの姿をいかに「本物らしく」見せるかがこの冒頭のインパクトを握っています。ですがこのシーンで注目すべきは、彼女たちの会話がまともに成立している場面はごく一部だということです。互いの話をろくに聞くこともなく、ワイン片手に自らの差別や抑圧の経験を吐き出すばかり、周囲も多少の相槌は打つものの「私にも似たようなことがあってね」と、話題を自分の愚痴に変えてしまう。夢のようなパーティが開けたのに、結局はみんな不幸だったねと酒に流してしまうだけ、という1幕の結末は、レストランやドレスの華やかさに反し非常に冷淡なものです。

 そして一人一役演出のために、役者が備える1幕からの連続性が絶たれます。つまり、このパーティはマーリーンの空想の産物でしかないことが強調されるわけです*6。相手を顧みず自分のしんどさを勝手にしゃべっていても1幕なら夢で済んだ。でも3幕は、かみ合わない会話から本当に逃げることはできない。なにより、マーリーンとジョイスの関係において相手の足を踏んでいるのは紛れもなくマーリーンの方です。後半を3幕単体上演とするエネルギーの注ぎ方は、憧れのパーティなんていう空想に逃げるな、この場にこそ向き合えというターナーのメッセージのように思います。

 Top Girlsを女性へのエンパワメントとして今演出したとしても、決してそれが間違いだとは思いません。ただ、やはりチャーチルがこの作品により強く込めたものは、女同士だからというだけでそう簡単に連帯できるわけではないという、フェミニズムの辛さ(そして同時に、「女」というカテゴリーの元それぞれが違うからこそ変化してこれたという希望)だと思います。ターナーが今作で後者を前面に出す演出を採用したことは、私は高く評価したいと思っています。エンターテイメントという意味では物足りなくなったかもしれませんが、伝えるべきことをきちんと具現化した舞台です。

 

*1:昨今のダイバースキャスティングの潮流と、一幕の登場人物の人種を史実通りに残すこと(82年時点でアジア人女性のキャラクターが描かれていたという点で、私は史実に沿ったキャスティングにすべきと考えています)の折り合いをうまくつける意味でもうまくいったのではないかと。あと、ちょっとうがった見方ではあるんですが、metooにより事実上業界追放となったスタッフォード=クラークの演出案から離れたいという意図が、製作サイドにあったのではないかなぁと思ったりします。

*2:休憩の入れるタイミングに関しては戯曲に指示があったのを以前見た記憶があるのですが(1幕のパーティシーンの直後ではなく2幕1場後が望ましい、という内容)大学のデータベース読める最新の版では見付からない…。ちょっと探してみます。

*3:ところでターナーが変えているのはあくまでも演出の慣例で戯曲本文は変えていないはずですが、このばらつき感が英演劇界のdirector's theatreへの評価とちょっとパラレルなのが興味深いです。

*4:細かい台詞を忘れましたが、ウェストミンスターの方角(近いんです)を指さすってところがあるんです。

*5:ちなみにこの中でアンジーの出生について明らかになるわけですが、1幕で話題の多くを占めるのも子を持つことをめぐる不幸です。

*6:ちなみに、慣例ではイザベラ・バード、キッド夫人、ジョイスを一人で演じます、って書いてて、この役者さんは3幕それぞれ異なるキーパーソンをやることになるのかと気づきました。