The Seagull by Anton Chekhov (Simon Stephens's version) at Lyric Hammersmith

観劇日:2017年10月22日14時半開演

演出:Sean Holmes

 

 レビューを流し読むと'funny'という単語が目についたところから予感はしていた。チェーホフ四大戯曲を「喜劇」としてやろうという試みで『かもめ』ならば*1、と、ひとつ期待を込めて劇場へ行ったら、全くその通りだったので、個人的には満足である。そう、痛コスチャだ。

 私は、コスチャは中二病だと確信を持っている。自作の戯曲を身内上演して微妙なダメ出しや理解をもらうとか高校生が勢いでバンド組んで自作曲やっちゃうやつだし、カモメを殺すのだって「むしゃくしゃしてやった、後悔はしていない」だし、ニーナには置いて行かれるし、マザコンだし。終幕で自殺してしまうことは悲劇的だけれど、思いとどまって10年生きたらこの話は完全に彼の黒歴史だ。嫉妬し苦悩する若き作家、という定番の描かれ方にどうにも違和感があったのが、しかし今回解消された。

 流行りのテクノ系バンドのMVのコピーのような一幕の劇中劇(コスチャがエレキギター弾きながらアンプにいかにもな風で腰かけている)。二幕、迷彩柄のライフルを抱えてスキニーパンツと革靴に半裸ジャケットといういで立ちで登場、かもめの死体はビニール袋に突っ込まれ、か弱さのかけらもないそのへんの鳥である*2。三幕のアルカージナが手当てをする様子は微笑ましいが、しかしどう見ても小学生男子と母親の図である。(アルカージナもしっかり情緒ベースの造形だったので、なんというかとても似たもの親子である。)四幕でようやく作家のキャリアが出来てきたと思ったら、再会したニーナの方が女優として失敗したにも関わらず精神的にははるかに成長を遂げており、ルサンチマンのやり場もない。こういうラインで読み進めると、ラストシーンはかなり飛躍に見えるのだけど、銃声をはっきりと聞かせて、アルカージナ含めその場の全員が自殺に気づく(ドールンのラストの台詞はトリゴーリンへの「確認」)という演出で、力業で持って行った。

 コスチャが変わると周囲も変わる、で、とりわけニーナとアルカージナはとても良い役作りになっていたと思う。ニーナは芯があって、自尊心をきちんと持っているタイプ。十代を謳歌してる感じの元気の良さで、アルカージナの嫌味やかもめの死体にびくともしない。ただその幼さゆえに、ほいほいとモスクワへ行ってしまうことになる。コスチャ、トリゴーリンともに、ニーナとの恋愛関係のニュアンスはほぼ無くなっていて(というか、アルカージナを例外として、登場人物の惚れた腫れたのプロットは全体的に抑えめ)(なのでトリゴーリンとのキスシーンは、今問題のショービズセクハラをちょっと連想させますが…)かなりはっきりと女優キャリアに邁進する女性として描かれている。四幕の「私はかもめ…」のシーンも、精神的に病んでいるようなフラジャイルな様子はなく、だからこそトリゴーリンに描かれた「かもめ」のイメージに囚われて続けている狂気を感じる。

 アルカージナは、この人田舎に戻るとビッグマウスだけどモスクワでは二流だろと思っていたのだけど、ほんとにそういう感じに描かれてて笑った。コスチャがトリゴーリンに嫉妬するように、彼女はニーナに嫉妬するわけだが、それは単にトリゴーリンとの三角関係やコスチャを取られることに対してだけでなく、ニーナの女優としての可能性も嫉んでいる。ニーナにせよコスチャにせよ、若い才能をスポイルするタイプの人が「大女優」とは個人的にあまり思えないので、この良くも悪くも地に足の着いた造形は面白かった。演出上の興味深い仕掛けは、女性登場人物の中で彼女だけが白人キャスティングだったこと。黒人であるニーナとの対比は暗に彼女のキャリアが白人特権かもしれないと匂わす。

 衣装美術は現代、でも地域は特定できない。(夏場のバカンス風のシーンがあるので、ロシアとしているわけではなさそう。)ステーヴンスのバージョンが、オーソドックスな翻訳からどれくらい変えているかはこれから読んでみるけれど、少なくともプロット、ストーリー、登場人物の変更はなし、ただ台詞は意訳がかなりありそう。(いわゆる言語上の翻訳者は別にクレジットにのっています。)客席は土曜マチネながら、わりあい空きがある。それがプロダクション自体の評判によるのか(レビューは概ね高評価)、『かもめ』やチェーホフの人気によるのかはよくわからない。(感覚的に、同時代の古典ではイプセンの方がロンドンでの上演は多い気がする。)解釈に関しては、私は自分の観たい『かもめ』が観れて満足だけれど、もっとクラシックなテイストで楽しみたいという向きもあるのかもしれない。それに、がっつり解釈同じで予想通りというのも、喜び半面、意外性がなかったのも本音ではある。

*1:「喜劇」としてチェーホフを、というのはケラさんが長く取り組んでいる試みでもあると思うのだけれど、残念ながら『かもめ』は見逃している。『ワーニャ伯父さん』は渡英前に滑り込みで観て、良い上演だと思ったけれど、声出して笑うというよりしんみりする滑稽さを私はより感じてしまった。

*2:学部時代、ブライトンという海辺の街にあるサセックス大学に一年留学していたのだが、キャンパスにかもめがあほほどいた。人の食べ物を奪い、いたるところに糞を落とし、日本で見るかもめより二回りはでかく、凶暴さはカラス、数はハト並み、新入生オリエンテーションで「サンドイッチを食べながら歩くときは背後に気をつけよ」と注意されたほどである。当時履修していた戯曲講読の授業で『かもめ』を読み、そりゃいらついて殺したくもなるわ、と心底納得した。