Real Magic by Forced Entertainment at mac

観劇日:2017年11月24日20時開演

(かなり走り書きなので後で修正するかも)

 観終わってすぐ、これはジュディス・バトラーのパフォーマティヴィティをポジティブな方向で解釈して舞台化したらこうなった、というものではないかと思いついて腑に落ちたので、なんかあまりこれ以上書かなくてもいいかなという気がするんですが、これだけだと数年後にこれ読み返して、何を観てん自分…てなるので、記録的に書いておきます。

 MCの司会のもと、出題者が考えている言葉(正解は手にした段ボールにでっかく書いてある)を目隠しした解答者(答えられる言葉は常に同じ)が当てる、三回間違えたら3者それぞれ役割交代というクイズ番組風のシークエンスをひたすら反復する。誰が解答者になろうと間違え続けるし毎回失敗する、というか正解しないこと自体がルールである。

 バラエティ番組の諸要素をいろいろに引用していて、それはパフォーマーの衣装であったり、カンドラフターやSEであったり、チカチカした照明であったり、MCのノリや解答者らのムード(生き別れた家族と再会っぽいやつが一番笑った)であったり、そうした部分で反復のバリエーションを生んでいく。

 けれど、重要なのはこのシークエンスの反復にどれほどパフォーマンスのボキャブラリーが豊かに用いられているかではなく、反復を通じて、三回間違えたらアウト、のルールの意味がずれていくことである。「クイズ番組」であれば、間違えたら失敗です残念でした、となるわけだけれど、途中から目隠しをせず解答席に座ったり、出題者が答えの書いたボードを持っていない、という事態が展開していく。答え見えてんじゃん、答えわかんないじゃん、という観客が当然のように受け取るばかばかしさは、逆に言えば、答えがわかってもわからなくても「間違えなければならない」という形でルールの縛りを見せつける。

 ルールの作用が変わる展開のキーになるのは三人のうちの唯一の女性パフォーマーであるクレアさんで、たぶん女性であるということはかなり意味を持っていると個人的には思う。三分の一くらいのところで、彼女が解答者になるターンがまわってきて、露骨に答えの書いたボードが示されるのだけれど、彼女は三度間違える。いくら答えが明らかで、解答がわかっていても、間違えるのがこの場の「お約束」なんですよね、というMCらの期待に抗えないのだ。その「知ってるけど知らないふりをしなきゃ」はしばしば女性が(あるいは立場の弱い人が)感じるあの居心地の悪さじゃないか、と思う。

 次に変化が起こるのは中盤で、これもやはりクレアさんが解答者役。反復のシークエンスの中では間違いの解答も常に同じである。(electricity, hole, money。ちなみに正解のボードに書かれている言葉も3パターンあり、caravan, algebra, sausage*1。)この時、MCと出題者の二人が'hole'や'money'の慣用表現を言葉遊びにして、文字通りの意味合いから比喩的な表現までさまざまに意味を取ろうとする。そしてMCが、どのholeの意味で答えました?と返すのだ。誤答にも解釈の余地があると示されたことで、では正解も間違いも解釈次第で、結局のところ「失敗する」という結果自体にしかルールの意味はないのではないかと気づかされる。

 正解だろうと間違いだろうと何を答えても失敗する、というのは完全にディストピアな世界観であり、後半のシークエンスの反復のサイクルはほぼルーティン化して加速度的に早くなる。しかし同時に明らかにされていくのは、このルールの「失敗しても役割が変わるだけで決定的に罰せられることはない」という側面である。

 最後のシークエンス、これもやはり(というか私は少し期待をしていた)クレアさんが解答者だった。MCが、出題者の考えている言葉を当ててくださいと、何度聞いたかわからないクイズのルールを説明する。出題者はボードを手に笑顔で立っている。解答者はもはや目隠しはしていない。正解はこれだよ、とボードをあからさまに解答者の方へ向ける出題者(これは前半部のクレアさんのターンの反復にも見える)、焦らずゆっくり考えてと繰り返すMCは、むしろ誤答が出ることを恐れているかのようだ。「正解」を言ってくれ、という二人の期待に反し、解答者は余裕の笑みでクイズに間違える。そもそもクイズの解答の成否は問題ではなく、もはやルールは意味をなさなくなり、それでもなお守り続けるMC達の方が滑稽だ。ルールが無意味になった以上、ではこの次はどうなるのかという期待を持たせての幕。もちろんこのルールは、この社会における規範の比喩である。

 すごく悲観的に見れば、やっぱりルール自体はなくなってないのだし、ルールの枠内で好き勝手やるってことに変わりはないんじゃないの、とも思うし、そうとればかなり希望のない作品だと思うけれど、個人的には、楽観的にすぎるかもしれないが、とても明るい作品だと思う。反復することでずれて変わっていくこと(それは必ずしも「良い」変化ではないかもしれないけど)の可能性をきちんとみせてくれた。

 Forced Entertainmentは舞台では数回、あと映像でわりと見ているのですが、どれを見ても出演者の人たちが隙なく上手くて、でもリラックスしたユーモアがあって、その様子だけで幸せになるんですが、あれはいったいどういう訓練をすれば達成できるのは本当に謎。今作のフライヤーのコピーは'Beckett Meets Trash TV'で、例えばベケットをやったりはしないんだろうか、とぼんやり思うのですが、まぁやらないだろうなぁ…。

 

*1:脚注にして書きますが、ソーセージに関してはすっげぇベタな下ネタをかます場面があり(想像してください)わぁ30年選手のベテランもこんなのやるんだとちょっと感動しました。無理やり意味をくみ取るとすれば、その次のターンでのほぼ下着姿の女性パフォーマーのポージングが妙にエロく見えるという視点の切り替えでしょうか。そこまで深く考えているのかわかりませんが。

脚注に追記:これ、正解の単語も比喩的に取れるよ=解釈次第だよ、ということかもしれません。