NTLive A Midsummer Night's Dream @ Bridge Theatre

NTLive (recording)

観劇日:2019年10月20日

演出:ニコラス・ハイトナー

 

*すでに各媒体のレビューで詳細が書かれていますが、おそらく日本上映が来年あるだろうと思われるので、一応「ネタバレ注意」で。

 

 特にまとまりはないんですが、今作かなり大胆な設定変更があったので、備忘録的に何をどう変えていたかざっくり書き留めておきます。

 

 前提として、去年ブリッジで上演された『ジュリアス・シーザー』と同様に、舞台上にスタンディングの客席エリアが設けられています。(シーザーの時は「モブ席」というチケットで売られていたんですが、今回は何席だったのだろう。)

 

 上映前のイントロダクションでいきなり触れられているのだけど、今作のアテネの国の設定はアトウッドの『侍女の物語』的ディストピア世界です。この国の男女の婚姻において根幹となるのは王侯貴族の慣習や法ではなく、女は子産みの道具とする差別主義(婚姻と性差別って貴族の婚姻でもそうなんですが、貴族社会ではない設定でより露骨に出てきたという感じ)。ヒポリタに至っては「ホッテントット・ヴィーナス」をも連想させるガラスケージに閉じ込められて現れます。

 なので、ハーミアとライサンダーの駆け落ちとそれを追うディミトリアス、ヘレナ、のモチベーションは原典からかなり印象が変わります。男性陣にとってはロマンス成就の目的はわりとそのままですが(というか逆にこの二人はロマンスのため「だけ」に動いているような感じになっており、後半の追加シーンであるパックのいたずらによる二人のキスシーンがもろに欲望の三角形からのホモソーシャル関係です。)、ハーミアとヘレナについては自身の生存もガチでかかっていることに。ヘレナをハーミアが執拗に追うのには、私だってこんな社会は嫌だ、という二重の意味があるように描かれます。(ハーミアがディミトリアスに、私はあなたの犬にだってなる、と言うのは、この設定を踏まえると、彼女は別に恋しているわけではなくて、絶望的な社会から抜け出す方法がディミトリアスとくっつくこと、と言えるかもしれません。)

 

 シシアス、ヒポリタはオベロン、タイターニアと二役。このキャスティング案自体はそれほど珍しくないと思うけれど、クライマックスに近づくにつれて、それぞれの役の境界がなくなっていくかのような演技プランが採用されています。

 各紙レビューが最も注目していたのは、オベロンとタイターニアの役割の交換。これ、ちょっとわかりにくいかもしれないのですが、ジェンダースイッチキャストではありません。オベロンは男性(Oliver Chris)、タイターニアは女性(Gwendoline Christie)です。(ごめんなさい私じつはGoTを見てなくて彼女の役者としてのイメージが今回どう反映されてるかはちょっとわかんないです)。そのうえで、ストーリー上のそれぞれの役割を交換しています。端的に言えば、(固有名詞や人称関係のテキレジを加えたうえで)オベロンの台詞をタイターニアが、タイターニアの台詞はオベロンがしゃべっている状態です。なので、パックと組んでひとめぼれの魔法をかけるのはタイターニア、ロバになったボトムと恋をするのはオベロン、という風に話が進んでいきます。

 大きく印象が変わるのはやはりオベロンとボトムの恋、なのですが、例えば取り換え子を育てるのはオベロンになるとか、バディ感あるタイターニアとパックのコンビとか、こっちの方が面白くない?という設定変更の妙があちこちにあります。もちろん、冒頭の侍女の物語アテネのイメージがあるので、男女の役割の入れ替えはそれ自体がかなり解放感があります。

 

 結婚式の出し物の稽古をする町人チームの設定は、刑務所のリクリエーション風になっています。つまり、ボトム(Hammed Animashaun)初め出演者はみな囚人で、見事に有色人種か女性だけというキャストメンバー。ボトムがめちゃくちゃに可愛い、という私の叫びはここでは置いておくとして、今回の設定変更で一番つらいのはこのキャラクターだなと思いました。

 パックにロバ男に姿を変えられた後、魔法にかかったオベロンにひとめぼれをされ、ほいほいとついていくわけですが、実はボトムがなぜオベロンについていったか(その後明らかに情事後だろというシーンがあるので誤解ではなさそう)というのがかなり多義的にとれるようになっています。実は彼はゲイかバイセクシャルだった?あるいはオベロンの豪勢な生活にひかれて?能天気すぎて何も考えてない?けれど、彼があのアテネの国の囚人だったという設定は、強くここで響いてくる。つまり、黒人であり、犯罪に手を染めるほど困窮し、社会階層が低く、そしてセクシャルマイノリティかもしれない(けれどあの国でそれをオープンには出来ないでしょう)、そういう人物が自分の欲望を解放してくれる素敵な人と出会ったのなら。

 魔法から目覚めたオベロンが彼に向けるまなざしは残酷です。もちろん台詞の上では「ロバに惚れてしまうなんて」というショックを語るわけですが、本当にそうなのかとても疑わしい。シシアスとの一人二役である点はここでとても活かされていると思います。妖精たちは全体としてクィアな雰囲気で描かれている反面(衣装やメイクに加えキャバレーのエアリエルの手法が演出に多用されてたりします)、このシーンのオベロンは、原典の台詞がとても保守的に響いてくる。作品としては面白いんですけど、ボトムの夢の終わりとしては本当に切ない。翌朝森の外で目覚めたボトムのモノローグの良さを改めて味わいました。

(ただ、オベロンとボトムのキスシーンがなかったことにはちょっと疑問を持っています。というのは、恋人チーム4人のドタバタ劇の最中、パックとタイターニアが男二人、女二人に恋の魔法をかけるといういたずらシーンが追加されているんですが、ここでは両組にキスシーンがあるからです。でも、記憶が正しければオベロン、タイターニアもそんなにいちゃついてなかったな、と思うので、ハイトナー的な愛情描写の線引きが気になる。)

(あと、ボトムのトランスフォーメーションは外見のみ、というのが私の理解なのですが、特にシェイクスピア研究を追っているわけでもないので、ボトムも恋愛の魔法にかかっているよという解釈があればぜひ教えてください。)

 

 夜が明けて、シシアス達がハーミアたちを発見して、やっぱり好きな人と結ばれないとね、と盛大に結婚式をやる流れになるわけですが、なんでこんな簡単にシシアス翻意したよっていうのはものすごく謎です。そもそもあんなディストピア社会が一夜にして解放されるわけはないので、おそらく本作としては森に入った時からずっと妖精の夢の中という解釈なのかなと思います。実際、結婚式の場面ではパックを含め妖精を演じていたキャストが式の盛り上げ役を担っており、森の中の出来事の続きとも観れると思います。

 だからこそ、私はやっぱりボトムのことが悲しくて仕方がない。彼は現実のアテネの国でも妖精たちの夢の世界でも見捨てられることになってしまった。社会の負の部分を背負った人が、『ピラマスとシスビー』のお芝居ではヒーローになれても、結局は夢を見ることが叶わないのだということが突き付けられているように思います。

 私は『夏の夜の夢』は学部の頃の英文学の授業で読んで、その時にヤン・コットを知ったのですが、この戯曲の闇の部分を暴く彼の解釈はずっと根強く私の中に残っています。全然ハッピーな作品じゃないよなぁこれ、と改めて。ディストピアなアテネの国というアイデアを採用する一方、イマーシブな仕掛けを巧妙に作り観客を饗宴へ誘うハイトナーも、この作品のシニカルな二面性に魅了されたのだろうと思います。