The Believers Are But Brothers by Javaad Alipoor at Bush Theatre

観劇日:2018年2月3日19時半

演出:Javaad Alipoor and Kirsty Housley

 

 2017年のエジンバラ・フリンジファースト受賞作。ISIS、極右/オルトライトといった過激政治思想とインターネット、SNSの融合を、実際に観客にWhatsAppを利用させて*1、舞台上の語りと交錯させつつソーシャルメディアを通じてのインタラクションを体験させるパフォーマンス。ISISへ勧誘されるムスリムの若者や4chanで流布するプロパガンダや炎上など、いくつかのエピソードが作品の中心となっている。

 取り立てて劇的なエピソードがあるわけではなく、特に極右の炎上事案に関しては日本語圏でも似た話題がかなりあるので、そういう意味での新しさはあまり感じず。WhatsAppも、 パフォーマーから観客へ送られるメッセージが多く、観客からパフォーマーへ、あるいは観客同士のインタラクションとしてはあまり機能していない。というか、送られてくるメッセージを読む、という方向に使われがちで、事実上語りの形のバリエーションに過ぎなくなっている。(とはいえ、ISIS勧誘の一連のやり取りをスマホ上で眺めるのは、やはりちょっとぞっとします。)4chanを初めとするインターネット上の事件もエピソードの一つに過ぎず、もしあの種の大型掲示板の形式も上演に取り入れられたら、個人間で使うSNSとの対比が面白かったかもと思う。ただネット文化への距離やリテラシーは、世代を筆頭に様々なファクターが絡むので、これらを衝撃的だと思う観客がいてもそれはそれで驚きはないけれど。

 そもそも、ネット文化に対する感覚自体が作者であるAlipoorと私の認識が結構ずれているように思われ、私自身はSNSを通じたISISの勧誘と大型掲示板のフェイクニュースや炎上を同列に語るのはかなり難しいだろうと考えている。個別のメディアに特有の(または有効な)アピールの方法はその内容次第で違うわけで、ましてアプリを通じた観客参加を促すならなおのこと、エピソード全てをインターネット上の事としてひとくくりに語るよりかは、いずれかのケースに特化したパフォーマンスの方が切れ味は良かったように思う。(WhatsAppのグループで極右キャンペーンの作戦を話し合うというエピソードも出てくるんですが、そしてこれは実際にあり得るだろうと思うのですが、むしろ閉じたグループ内では陰謀めいた話はいくらでも出来るだろうと、深刻さが逆に欠けてしまっていたように思います。)あと、これは全く個人的な感覚だけれど、今日本のネット文化だと、もはや2ちゃん的な大型掲示板って過去のものになりつつあって、今やツイッターが不特定多数へ発信するメディアとしては一番力があるように感じている。*2英語圏で今どこまで4chanが影響力があるのか私はあまりよくわかってないのだけれど、ローカルな感覚の差も印象に影響したように思う。

 テーマはとてもアクチュアルだし、アプリを使うというアイデアも面白いし、もっとそれらが活きるのかなと思ったけど、個人的には惜しいという感じ。ただ、質が低いわけではないし、政治的にとても誠実な作品だった。

 

*1:舞台で使用するチャットグループに参加するかは任意(チケットの受付時に訊かれた)。開場中、客席の写真をアップしているお客さんがちょいちょい。劇中かなりミーム等写真や画像のの投稿が多く、私はスマホの充電とパケットの残り使用量にちょっと冷汗でした…。

*2:この作品見た時ちょうど吉野家コピペの炎上があってタイムリーでした。

Beginning by David Eldridge at Ambassadors Theatre

観劇日:2018年2月3日15時

演出:Polly Findley

 

初エルドリッジ。*1

パーティ後に居残った男女二人のミドルエイジロマンスな二人芝居。特別目立った仕掛けがあるわけでもなく、笑いもそこここに散りばめられていて、良質な会話劇という感じ。(しかし私はこの笑いとるシーンが全くツボにはまらず(周囲のお客さんはウケてる)根本的なユーモアのセンスが彼とずれている、という認識に現在のところ至っております。)

今どきっちゃ今どきだけれど、恋愛関係への発展を妨げる要因は男性の側にあり、女性の側が関係をリードしようという展開は、個人的には嫌いではないものの、この作品の状況では微妙に思える。バリアの一つが男性サイドの性行為(とおそらく望まぬ妊娠)への抵抗なのだけれど、無理して一夜限りでどうにかせんでも、パーティで酒入ってんだし、酔いを醒まして後日仕切り直しで良くないか?と、自分が笑いに乗れないせいか、妙に冷静に考えてしまう。

「弱者男性」フォローというと言いすぎかもしれないが、とても現代的な(また都会的な)男女観と、定番鉄板なヘテロロマンスの折衷案のような展開で、その意味でとても今風だと言えると思うけれど、個人的にはこういう関係ってつまらないと思うのよね、とぼんやりする鑑賞後。男のありようが変わっても、昔ながらのロマンスが上手くいくっていうのはちょっと出来過ぎた話だと思う。

基本的に、知らない作家の作品は良し悪し好みを問わずとにかく3本観て、その後追っかけるかどうか決めるというのが信条なので、あと2本は観ますエルドリッジ。

 

追記:唐突に思い出したので。ちょっと話題は飛ぶんですが、今(2018年2月14日時点)で  というイラストお題 *2 のタグがツイッターで流行っていて、これめっちゃ面白いなと思いながら眺めてるんですが。ここに出てくるような理想の女性/母親像や(すなわちスーパーウーマンかつマッチョ思考ではないシングルマザー)、このタグのイラスト群に父親的存在(魔女の恋人やパートナーさえ出てこない)が根本的に欠けてることの重要性に関わるような異性愛関係のオルタナティヴなヴィジョンってこの芝居にないんですよ。ドラマの生成に男女の対が必要なのが前提になってる。そこが多分、今っぽいけどつまらないって感じる大きな理由だと思う。

 

 

 

 

*1:正確にはA Thounsand Stars Explode in the Sky(邦題は『千に砕け散る空の星』)の日本公演を観ているので、初対面ではないけれど、単独作品としては。

*2:不老不死の魔女が男児の捨て子を拾い育て、その子が大人になって魔女と二人で幸せに暮らしているという設定で二枚以上(子の成長前と成長後)のイラストをアップするもの。設定のバリエーションは広がってるんですが(動物や魔物を拾ったり、女児を拾ったり、魔女との恋愛関係を匂わせたり、魔女狩りを絡めたり)、男性魔法使いが男児を拾うというパターンは見つからない。タグ分けてるのかな。

Amadeus by Peter Shaffer at National Theatre

観劇日:2018年1月27日14時

演出:Michael Longhurst

*2016年に上演されたプロダクションの再演です*1。(今年のNTliveで上演されるのは2016年上演時のものです。)

 

 年明けからこっち課題の締め切りに追われ、芝居どころかまともに外出もしてねーわ、という1月でしたが、ようやくひと月ぶりに、新年最初の観劇へ。サリエリに涙する三時間でした。

 今回の発見は、この物語は結局のところ、サリエリの独り相撲でしかないということ。モーツァルトとのライバル関係とか、サリエリの信仰の問題とか、才能と人間性の間の深い溝とか、語るべきテーマはたくさんある作品だけど、今回の公演では徹底して、サリエリの視点に立っていて、彼にしか感情面でのフォーカスが当たらない。例えば二幕は結構モーツァルトに軸があるはずなのに、彼の困窮はドライに扱ってて、激しい嫉妬を押し殺すようなサリエリが前面に出てくる(物理的にもそうで、サリエリは舞台前方、モーツァルトは舞台奥によくいる。これは奥から客席へ向かって照らされる照明とも重なってて、強い光へ向かうモーツァルトという構図が決め手にもなってる)。つまり、モーツァルトやサリエリの信じる神様が実のところ何を考えているのか、サリエリのことをどう思っているのか、本作的にはどうでもいい。でもサリエリは、モーツァルトは驕っていて不真面目な人間だという評価を変えることはないし、神は自分を裏切ったのだと疑わない。当然のことなのだけど、人の気持ちなんて本当はわからないし、いくら推測したところで相手は全然違うことを考えていたなんて良くある話なわけで。でも、人は他人の言動を気にするし、ありもしないことまで深読みをするし、人知を超えたことがあり得るのだ、とも考えてしまう。だからサリエリの中で嫉妬や憎しみが育っていく過程は、結構あっけない。他方で、聞こえてくるモーツァルトの音楽は自分の感覚に訴えてくるもので、その感動もまたサリエリが偽れない感情である。サリエリの「平凡さ」はそこにあるのだ、と突き付ける上演で、でも多くの人は(たぶんモーツァルトさえも)そういう葛藤を多かれ少なかれ抱えてるものだろうと思う。強烈なアイデンティフィケーションを促す構成に、抗えなかった(というかサリエリみたいな人物造形がそもそもツボなんですわ)。

 とはいえ、物語全体の語り手でもあるサリエリの客観的な視点もきちんと残してある。モーツァルトの破天荒が意外にあっさりと見えるのは、この語り手ポジションの機能のためでもあるだろう。宮廷に仕えていた当時と、その数十年後死を目前にして回顧する現在の、二人のサリエリが多重的な構造を生んでいる。だからこそ、今回の演出のおそらく一番の肝である一幕ラストシーンが、この物語はサリエリのものですので!という印象を決定的にする。

 一幕ラスト、モーツァルトの妻コンスタンツェがサリエリに、夫への仕事の紹介を頼みに来る。サリエリは、彼女とモーツァルトへの侮辱と自身の欲望のために、彼女に性的関係を持ちかける*2。この時、コンスタンツェはモーツァルトの楽譜を持ってきていて、彼の才能を見てほしいと預けていく。写しのない手書きの初稿原稿に全く修正がないこと、その譜から聞こえてくる音楽の素晴らしさに驚愕しつつ、サリエリはその譜を破り捨てる。これ、戯曲にはない指示で*3、かつ二幕冒頭ではサリエリはコンスタンツェに楽譜を返しているので、語り手の方のサリエリが楽譜を破ったのだとわかる。感情的な宮廷でのサリエリと、それと距離を取るように置かれる老年のサリエリが、しかしながらこのワンシーンで見事に(そしてまた醜くも)混ざりあってしまう。

 映画の方だと、モーツァルトの足を引っ張るために暗躍しまくるサリエリだけども、舞台ではどちらかというと傍観者。むしろ同僚の貴族たちが彼を貶めようと腐心している。(例外は『フィガロの結婚』初演に際する入れ知恵でしょうか。)思いのほか二人の接点は描かれず、言い換えればこれは「ライバル」という関係でさえなく、サリエリが自分の後輩に対してひたすら負の妄想を抱き続けただけ、ということにすぎない。モーツァルトは貧困のすえ病で夭折し、サリエリは宮廷作曲家として華々しい生涯を送る。同時代の貴族や皇帝さえ碌に理解しなかったモーツァルトの才能を理解したことを誇ればよいのにと思う反面、どれほど世俗的に成功しても自分には届かない領域があることを認めるのは苦痛以外の何物でもない。

 今回、サリエリを演じたLucian Msamatiは黒人で、オーケストラ含め有色人種の役者、演奏者のキャスティングが少なくなかった。(ただし、宮廷の王族貴族はがっつり白人。でも、貴族の一人に女性がキャスティングされてた。)ポスタービジュアルも印象的で、これってやっぱ黒人キャストとしての解釈があるのかしら*4、と期待していたのだけど、いい意味でそれは裏切られた。全く、サリエリが黒人であるということへの演出的な言及がないのだ。それは決して人種の問題をないがしろにしているわけではなくて、むしろサリエリがものすごく世俗の事柄に執心することは、モーツァルトの天才的な作品の前にも、神への信仰の前にも、全く無意味であるということを逆説的に示していた。私はこういう人類みな平等的な解釈は基本的にあまり良いとは思わないのだけど、この作品においては、人の考えうる差異など取るに足らないのだというメッセージは、強く響くと思う。

 音楽的素養のまるでないわたくしですが、生オケはやっぱり良かった。一部ジャズ風のアレンジがあったりもして、音楽劇としても堪能しました。私でさえ知ってる曲がたくさんあったし、というとサリエリの不興を買いそうだけれど。

 

*1:主要キャストや演出に大きな変更はなし。トランスファーやツアーでなく、同じ劇場での再演なのですが、これイギリスだとあまりないパターンだと思いますが、どうなんでしょう。日本だと、1~2年明けて同じプロダクションチームで再演やツアー公演って時々ありますが。

*2:勢い余って映画版を見直したんですが、映画だとこのやりとりが(クリスチャン的な不貞が)、サリエリが狂っていく重要なポイントになっているように思う。

*3:ただ、シェーファーはこの作品、上演のたびに改訂を重ねているので、どこかのバージョンでこのシーンがあったのかもしれません。というくらいには、ものすごくはまっていた解釈でした。レビューを漁れてないのですが、この場面に言及したものはありそう。

*4:既存戯曲のリヴァイヴァルで登場人物の(作中の設定や作品が発表された時代から想定される)人種や性別と異なるキャストを配するのはもう全然珍しくはないと思うのですが、作品解釈におけるキャスティングの比重って、同じ英語圏でも英米でかなり違うように感じます。アメリカだと、特に人種関係のキャスト変更があるとそこに的を絞った批評が良く出てくるように思うのですが、イギリスは良くも悪くもあまり深く突っ込まないというか、俳優の雇用平等みたいなプラクティカルな側面が重要だと捉えられているような気がします。個人的な印象にすぎませんが。

Everybody's Talking About Jamie by Tom Macrae and Dan Gillespie Sells at Apollo Theatre

観劇日:2017年12月27日14時半開演

 

 2017年2月にシェフィールドはCrucibl Theatre製作で発表されたオリジナルミュージカルで、初演の高い評判を受けてウェストエンドへトランスファーとなりました。12月から翌春までのロングランが決定しています。(もっと延びたらいいなー。)

 中学校卒業を控えた16歳のジェイミー*1は、将来ドラァグクイーンのパフォーマーになることを夢見ている。学校の進路指導でこそ言い出せないものの、母親や親友のプリティには夢を応援してもらっているような、理想と現実のはざまにいる思春期の少年。誕生日に母親から真っ赤なピンヒールを贈られたことに背中を押され、町のブティックへドレスを見に行くと、その店のオーナー、ヒューゴは往年のドラァグクイーン!とんとん拍子にクラブでのステージデビューの話が決まっていく。

 クラブでのパフォーマンスにはクラスメイトがみな観に来て、ショーの翌日は学校がその話題で持ち切り。ジェイミーも自信をつけて、卒業前のプロムでのステージ構想を抱くようになる。ところがその計画が教員に知られるや否や、学校側は「プロムは生徒全員のためのパーティの場であって、ジェイミー一人が『乗っ取る』ようなことをするのは認められない」「プロムとはいえ、学校には『適切な』恰好で来るように」とくぎを刺す。同時に、別居中ながら陰で応援してくれていると思っていた父親が、以前からジェイミー達とは縁を切りたいと考えていたこと、母親はそれを知りながら父親は愛情深いと偽っていたことがわかり、ジェイミーは自分は「醜い」とその存在を責めてしまう。プリティの励ましや母親との和解を経て、パフォーマンスはしなくともありのままの自分でプロムに出ようと決意したジェイミーは、真っ白なワンピースで会場に赴く。

 これは実話がもとになっていて、モデルとなったジェイミーを取り上げたドキュメンタリーが数年前にBBCで作られている*2。というか、このドキュメンタリーがミュージカル製作の発端。実際には、クラスメイトの協力も厚くプロムでのパフォーマンスが叶ったそうなのだけど、ミュージカルでは落ち着いたエンディングで対照的。

 さて、物語の構成的に、次世代の『ビリー・エリオット』とまで評されている今作、個人的にはマイノリティの物語としてはビリーよりもずっとアップデートされてると思う。特徴的なのは差別の描き方。ジェイミーはオープンリーゲイで、クラスメイトとも(彼を変わり者と見るものの)楽しく学校生活を送り、家族は最大の理解者(これ、お母さんはレズビアンではないかという描写が、明示的ではないものの、結構あります)。唯一、攻撃的な侮辱を浴びせてくるディーンがいるが、ジェイミーは「華麗に」その言葉を受け流す。そしてディーンも近寄りがたい存在としてまたクラスから浮いてる存在でもある。

 ただ、マイクロアグレッシブな差別は常にジェイミーを取り巻いている(割と前半に歌われるThe Wall in My Head はこのあたりの問題も描いています)。プロムに関する学校の対応はもちろん、ジェイミーに時に好奇の目を向けるクラスメイト(「お調子者」な彼の姿をみんながスマホで撮る場面がいくつか出てくる)、ディーンの乱暴な物言いに乗ることはないけど反論もしない周囲。まともに応じるのは母親やプリティ、ヒューゴだけで、ジェイミーは無関心や「問題を起こすな」という空気に圧迫されている。*3

 ジェイミーの明るさは、こういう小さな積み重なる攻撃に対抗するためのものでもあるのだろう。ラストシーンを実話と変えているのは、彼がプロムの主役となって底抜けに明るいまま終わるのではなく、彼が明るくなれないときも、シャイで落ち着いた姿でも大丈夫な場所に学校や社会が変わっていけばいいね、という期待を込めたものだと思う。

 Work of Artという曲が、展開も含めすごく印象深い。ドラァグクイーンデビューを控え、学校のトイレでプリティにメイクを教わっていたところを教師に見つかり、プリティがとっさに「美術の授業のためで」と言い訳をする。「芸術」ならば堂々としなさいよ、と教師はジェイミーを顔も洗わせずトイレから引きずり出す。失敗したメイクのまま廊下を歩くジェイミーにすれ違う生徒たちスマホを向けるが、ジェイミーは臆することなく自分こそ「パーフェクトな芸術作品」だと歌い上げる。かっこよくて、切なくて、強くて、繊細で、色んな感情がこみ上げるシーンだった。

  舞台となるのもモデルのジェイミーが暮らしていたのもイングランド北部のシェフィールドという町である。ドキュメンタリーを見た友人によると、学校の人種構成は白人がマジョリティだったそうだが、作中のジェイミーのクラスメイトの人種は様々で、親友プリティはムスリムの女の子。こういう部分の変更とか工夫は、もはや思い切ってというものでもないのだろうけど、観ていると楽しくなる。

 

*1:イギリスの教育制度は結構ややこしいので、正確には義務教育修了年です。またジェイミーがどういう種類の学校に通っているのか明らかではないのですが、衣装に関する制服の指定は(一般に制服がある学校は私立校でレベルが高い)あくまで物語の展開に関わるもので、舞台となる学校の生徒が裕福で頭がいいことを必ずしも意味しない、と演出ノートにあります。

*2:現実のジェイミー君は今作の10倍ぐらい出たがりのようで、プロムの案が出てきた時点で、テレビ局各社に自らドキュメンタリー製作の売り込みをしたんだそうです。すげぇ。

*3:特にプロムの件を初め、学校や教師の対応は、私これめっちゃ知ってるやつやで…ってなりました。一見PCや平等に配慮してるっぽい排除ってほんとにきついですね…。

Oslo by J.T. Rogers at Harold Pinter Theatre

観劇日:2017年12月21日14時

演出:Bartlet Sher

 

 2016年ニューヨーク初演、2017年にトニー賞ベストプレイ賞を受賞している。UK公演は、今秋のナショナルシアターでの初演の後、ウェストエンドへトランスファー。

 イスラエル、パレスチナ間の自治協定である1993年のオスロ合意の舞台裏を描くドラマ。ノルウェー政府の外交官夫妻の独断に端を発する完全極秘の会議が、度重なる交渉を経てワシントンでの合意にいたるまでを、意外にもコミカルに描き出す。

 知人から先に感想を聞いていて「三谷幸喜みたいだった」というコメントに、え?オスロ合意でしょ、しかもこの状況下で*1、と思ったのだけれど、確かに三谷風。一つは、政治的に深刻なテーマをライトに描く手つきで、これは『笑いの大学』ぽい感じ。もう一つは、一官僚の提案が、イスラエル、パレスチナの政府関係者はもちろんのこと、ノルウェー、アメリカの高官や外相、ひいては各国を巻き込んでの一大事となっていくプロセス。当然ながら、はじめは両国とも交渉には態度が固く合意にほど遠く、しかし徐々に歩み寄り妥協点を見つけていく。全員がばらばらの方向を向いているところから大きな目的へ進み見事達成する感じは『ラヂオの時間』だなぁと思った。実際これほどスムーズに事が進んだとはもちろん思わないけれど(ラストシーンでは関係者の没年と、イスラエル、パレスチナ間で協定締結後に起こった衝突や紛争が時系列に語られる)歴史的な事件をドラマチックにかつエンターテイメントとしても仕立てあげたクオリティは目を見張るものがある。

 コメディタッチに出来た理由の一つは、主人公をノルウェーの、歴史的には無名の官僚にした点だろうと思う*2。完全な秘密会議のため、第三者であるノルウェー政府の関係者は会議の場には立ち入り禁止。彼らはあくまでも、会議のための場所と両者の連絡をセッティングする以上のことはできない。ノルウェーの官僚たちの、ある種のなにも出来なさが、実際の会議との距離をとる良い仕掛けになっていたと思う。

 逆に言えば、イスラエル、パレスチナ間の交渉の様子は想像に頼ることしかできないわけで、厳しい会議だったことは承知の上で、両政府の外交官によるハートウォーミングなやりとりが描かれたりもする。 リアルじゃないね、と言えばそれまでなのだけど、その後、事実上この協定が無になってしまう今の悲惨な状況を思い起こすと、せめてドラマの中くらい、協定締結の時くらい、多少なり希望があってもいいのかなと思う。

  人種表象どうするねんというのはまぁあるんですが(今作に限らず海外作品の翻訳上演に常につきまとう問題ですが)、全体的な雰囲気や物語の展開自体は、日本でもウェルメイド好きなお客さんに好まれるんじゃないかなとも思います。

 

 

*1:本作初演は去年なのだけど、ちょうどこの作品のウェストエンド公演時、トランプ政権がエルサレムをイスラエルの首都と認めるという声明を出してめちゃくちゃ混乱していたのです。

*2:今作の主人公・語り手となるMona、Terje夫妻は実在の人だそうで、歴史に詳しい人だとモデルと比べて楽しめるのかもしれません。私が聞いたことあるのはせいぜいホルスト外相くらいで、そしてそのホルストさんは、作中では会議のセッティングを事後に知らされてパニック(外相まで話が上がってきたのは交渉が始まってそこそこ経った後)という感じで描かれておりました。

The Jungle by Joe Murphy and Jor Robertson at Young Vic

観劇日:2017年12月20日19時半*1

演出:Stephen Daldry and Justin Martin

 

 これ、実はまだ考えがまとまってないので、ぼやっとした感想ではあるんですが、早めに書かないと内容自体を忘れるので、とりあえず書いています。

 英仏国境に当たるフランスのカレーの難民キャンプを舞台とした群像劇。劇作を手掛けたマーフィー&ロバートソンは学生時代からライティングコンビ。二人はモデルとなる難民キャンプに半年以上にわたり滞在し、現地でGood Chance Theatreという劇場を立ち上げ、現在も難民支援と彼らとの芸術作品の製作活動を続けているとのこと(BBCのインタビューによれば、今作の出演者に元難民の人もいたようです)。

 作品は、2015年から2016年にかけてのカレーの難民キャンプの人々の様子を、キャンプの中に作られたアフガニスタンの定食屋を舞台に描く。各国から戦火を逃れた難民たちに、英政府の方針を批判するイギリス人ボランティアが加わり、様々なバックグラウンドを持つ人々によって民主的な自治組織が生まれ、キャンプは「ジャングル」と呼ばれる村のようなものを形成していく。海岸に突っ伏した男児の遺体の報道写真や、バタクラン劇場のテロによって世論が対極に揺さぶられる中、キャンプ敷地からの強制退去に伴う2016年冬の仏機動隊の突入までを、難民の一人Safiが語り手となって、ジャングルに何が起こったかをたどる。

 変則系囲み舞台で、四方から台詞が聞こえ(多くはオーバーラップして)、目の前の通路を俳優たちが走り回るという状態で、極端に舞台との距離が近く、その意味で観客の没入を促すような造りになっている。スピード感のある転換やナチュラルで活気づいた俳優の演技、定食屋を模した座席の美術は、私をキャンプのメンバーの一員であるかのような錯覚を起こさせるほどのアクチュアリティを立ち上げていた。バタクラン劇場のテロが起こった後、キャンプの人々が'pray for paris'と書いた紙を掲げるシーンは、ドキュメンタリー演劇ではないかとさえ思えるほど、現実の出来事を作中に入れ込んでいた。(ナイーブかもしれないがこのテロは個人的にとてもショックが大きかったので当時のことをよく覚えており、なおのこと印象深かったのかもしれない。)

 同時に、Safiの語りを初めとして、明らかに戯曲の言葉であるという台詞が語られると、これはフィクションだったのだ、と不意に引き戻される。それはショックでもあり安堵でもある。安心できるのは、中核の一つである、スーダンの少年Okotの英国への脱出をめぐる物語*2の末路が悲惨なゆえであり、ショックであるのは「この程度」の悲惨さでキャンプの様子を垣間見た気になっていた自分に気づくからである。

  少なくとも日本の人間として、作中に自分を属性的にアイデンティファイできる人物はいないのだけど、しかし共感を覚えるかというのも難しい。難民たちの過去や現在の苦痛はただただ想像することしかできず、イギリス人ボランティアの言動は「善意」のいやらしさを醜く映し出す。フランスの警察や役人の冷徹な対応こそ、日本と最も近しいだろうが、ここにキャラクタライゼーションはない。

 強いて言えば、私だけでなく劇場の観客全体が、「マス」の一部として埋め込まれていたように思う。センセーショナルな報道に動揺し、ハッシュタグで祈りを捧げ、しかしその実態さえもSafiのような語り手を通じてしか知りえないし、知ろうともしない。奇妙なことに、そのような大衆の一人として見ているときほど物語にのめりこみ、いや私はそんな人間じゃないはずだと冷静になるときほどふっと作品との距離が離れるようだった。

 とても面白かったのは確かなのだけど、上手く評価が説明できない作品でもある。そして、そういう矛盾のような作品構造がどのように成立していたのか、戯曲、演出、演技、美術や舞台装置、政治的テーマの関連も(これ、意外なほどはっきりと各領分がわかれている)どう切り取ればいいのか悩ましい。そのうち掘り下げた研究論文でも出ないかなぁと期待している。

*1:はい、How To Win...と同じ劇場でマチソワ観劇でした

*2:これ、戯曲と上演でラストが変わっています。上演では、Okotの脱出の手引きを手伝ったSafiが彼を裏切って、代わりに渡英を果たしたことになっています(つまり、強制退去後も無事だった人物として語り手を担っていると解釈できる)。ところが、戯曲の段階ではOkotが無事に脱出し、彼を特に気にかけていたBethとのイギリスでの再会を匂わすエンディングです。

How to Win Against History by Seiriol Davies at Young Vic Theatre

観劇日:2017年12月20日14時45分

 

 19世紀末に生きた「変わり者」の貴族ヘンリー・パジェットの生涯を語るコメディミュージカル。男性三人(くっそ歌上手い)のパフォーマンスで、低予算的ぽく、そのわりに派手派手しい衣装や小道具、美術はわりとキャンプな感じ。

 そもそも、パジェット卿はドラァグ的なところのあった人物らしく、普段から女装して暮らし、見合い結婚するものの妻との関係は上手くいかず離縁。さらには無類のエンターテイメント好きで敷地内の教会を劇場に改装し、自作の上演に財産をぶっこむも、芸術家としても興行主としても才能はなかったようで全くの赤字という始末。パジェットは29歳で病死してしまうのだけれど、その死後、親類によって彼に関するあらゆる記録は燃やされたとされる。歴史的資料が無くなってしまった実在の人物の生涯を、舞台で描き出すにはどうすればよいのか、そして歴史から抹消されてしまった人物がその存在を今に取り戻すためには、つまり「歴史に勝つ」にはどうすれば良いのか、チープで華々しいステージの背景テーマが興味深い。

 当然ながら、パジェットに関する資料がとても限られているため、知りえる史実を時系列に並べ、その出来事を歌にしてしまうという方法で彼の存在を作り上げていく。構成だけで言えば事実の羅列であり、その意味では今作はあまり「ドラマチック」ではない。では、このタイトルの意味は何だろうと思っていたら、エンディングに歌われる'I sort of won'という、観客の発想の転換を促すシニカルで切ない曲に、それが込められていた。

 「私の存在が歴史から燃え去ったことを『残念だ』とあなたが本当に考えるのなら、私はある意味で歴史に勝ったのだ」

 この逆説的なフレーズを成立させるために、史実を補完するあるいはフィクショナルに描き直すということに徹底して禁欲的で、抑制していた。物語の単調さと歌の華やかさ

の妙なギャップが、ラストシーンで観客を鋭く刺激する。この転換は痛快で、同時にパジェットの生涯を改めて顧みる思いを残した終幕は、タイトルに適うものだった。

 物足りなさを言うとすれば、シークエンスのつながりは結構ぶつ切り感があり、もうちょっとスムースにならんかったかなぁと。とはいえ客席は満席、客層も老若男女を問わず、親子連れも多くて、こういう作品が広く観られるのはいいなぁと思った。