Heisenberg: The Uncertainty Principle by Simon Stephens at Wyndham's Theatre.

観劇日:2017年10月14日15時

演出:Marianna Elliott*1

 

 サイモン・ステーヴンスを研究対象にしてしまったために、ともかく彼の関わる作品は余すところなく観ねばと公演情報を漁ったところ、今月ロンドンで3本あるでということがわかり、仕事しすぎ、とリサーチャーはぼやいている。Heisenbergはわりと大きなプロダクションなので12月までやっているのだけど、この先の予定がわからないし、観れるうちに観といた方がいいだろうと、ロンドン行きを決める。

(すごいどうでもいい話ですが、以前ある英文学の先生に、ステーヴンスに強く関心はあるけど、好きとか愛とかと言われるとなんか違うと思う、と話したら、愛なくしてどうして研究しようと思うのか!と驚かれたのですが、どうなんでしょうか。研究対象を愛してやまないタイプの人と、好きか嫌いかと研究したいかは別という人と二通りあるようで、私は間違いなく後者です。)(でも好きですよ、愛ありますよ、スティーヴンス。)

 さてタイトルからして、ハイゼンベルグですか不確定性原理ですか、という心構えをし、しかしそのテーマではすでにマイケル・フレインの『コペンハーゲン』という傑作が英演劇には存在し、それを挙げるまでもなく、自然科学や数学といった演劇/文学的モチーフから一見かけ離れたと思われていたような分野の知にインスピレーションを受けた作品はやまほどあり、そもそもさすがにこの21世紀にモチーフが量子力学ってのは大学受験から文系一筋だった私でさえ古くね?と思うわけですが、いざふたを開けてみればタイトル何一つ関係ねぇじゃんというロマンチックラブストーリーであった。ある意味、期待を盛大に裏切られた。

 中年女性と老年男性の出会いからパートナーになるまでを90分でやるもんで、プロットがかなりとっちらかっている印象。前半、妙に女性側がなれなれしく男性に接し(ツイッターに投げた感想では、ヤクきめてるんじゃないか、と書いてしまったのですが)それが受け入れられているのも妙な感じだし、その態度の理由が彼女が詐欺を働こうとしていたという秘密の暴露もメロドラマあるあるすぎてどうなんだ。そしてこのぶれぶれな二人の態度や関係を「不確定」と呼ぶなら、お前にとって「確定」されたものってなんだねと問いただしたくなる。

 悔しいのはステーヴンスの筆力で、台詞回しに関してはものすごく上手いものだから、やっぱりダイアログ聞いちゃうし、いい台詞だなぁとしんみりしちゃったりもするわけです。そもそも(私の認識では)彼は奇抜なアイデアやユニークなストーリーで魅せるというより、丁寧な台詞の言葉が魅力の作家なので、ベタでも実験的でもそれなりに見せる土台があるんだなと思う。

 Marienna ElliottとはThe Curious Incident of the Dog in the Night-time以来でしょか。わりと似ていて、削ぎ落した美術に照明の美しさでシーンの変化を魅せていく。場面を役者のダンスで接いでいくのはいいアイデアだと思ったけど、ダンス自体の質はあまり。というか、きっちり(戯曲にある言葉や感情を度外視して)コレオグラフすればいいのにと思う。

 一昨年アメリカで初演して、オフからブロードウェイへ進出し、そこからのウェストエンド公演なので、当然ながら英米ともにレビューの評判は上々。うーん、ロマンチックラブに振るならそれはそれで、もうちょっとやり方があるような気もするんだけど…(とりあえずタイトルとかさ)。

 

 

*1:公演情報は自分の関心のある部分だけメモとして書いているので人の参考にはたぶんあまりならないと思います。すみません。

Our Town by Thornton Wilder, Royal Echange Theatre Manchester

 マンチェスターのリージョナルシアターが『わが町』をやるのか、というのはレビューが出た時からずっと頭に引っかかっており、いずれにしてもマンチェスターには行かなきゃいけないんだから(ステーヴンスの地元で、彼自身Royal Exchangeと縁が深い)と、思い立って日帰り観劇を敢行。といっても終電が早いだけで、距離で言えばロンドンよりも近い。

 ずいぶん前に新国立で観た宮田慶子演出『わが町』はミニマルな舞台美術によって美しさを見出そうとしていたと思うのだけど、Sarah Frankcom演出の今回はミニマルであることによって、ここは劇場ではない、という感覚を呼び起こしていた。舞台監督の立ち振る舞い(ナレーター的ではなく、舞台進行を実際的に取り仕切る風である)に始まり、登場人物のラフな衣装、また前半ほぼ唯一の美術である長机と簡易椅子を観客席としても活用したり、円形で高さのない舞台など、それらはまるで「稽古場」の雰囲気を作り上げていた。手元に戯曲がないのだけれど、私のわかる範囲では台詞の改変はほぼなく、しかしキャストはみなマンチェスター訛りで話していた。(正確にはキャスト自身の地元の方言とのこと。)

 ここが「稽古場」であると示すことはすなわち、この作品の舞台は今現在のマンチェスターであると示されているに他ならない。エミリー、ジョージを初めとするグローバーズ・コーナーズの人々の些細で平凡な出来事は、このマンチェスターの街の至る所にあるのだろうと思わせる。同時に、稽古場という場の設定は『わが町』という作品があくまでもフィクションであることも突き付ける。もしも舞台監督が、作品の進行を中断したら、この場所はただの何もない空間になってしまう、その事実がちょっと辛く思えるような感覚である。(実際、二幕の結婚式風景のすぐ後に入るインターバルのアナウンスは、決してネガティブなトーンではなかったけれど、そのように機能していた。)とはいえ、これがお芝居かどうか、という点は実はそれほどくっきりとオンオフが分かれているわけではなくて、むしろ稽古風景を思わせる演出は、登場人物/キャストが演劇と日常のグラデーションの中にいるような感覚を抱かせる。

 ただ、死者の姿だけは稽古場の延長として、あるいは日常風景としては描けない。三幕だけは、舞台監督をのぞき、徹底して「演劇的に」演出が施される。エミリーが振り返る誕生日の風景は、雪に覆われたひまわりで飾られるテーブルを両親と囲むものである。死者の振り返る日常は日常ではなく特別な出来事なのだという、二幕までとの間に明確な線を引く舞台美術は、戯曲の持つメッセージを際立たせる。

 墓前に無言で打ちひしがれるジョージの姿は、生きている人々にとっても、死んだ人と過ごした日々はある時特別なものになるのだと訴えるようだった。パンフレットに少し言及はあったものの、プロダクションとしては強調していなかったが、しかしこの作品を観て今年マンチェスターで起こった事件を思い起こさない観客はおそらくいないだろう。(公演時期的に、事件の前からすでにプログラムに入っていた演目のはずなので、演出プランの変更はあり得ても、作品選択自体は意図的ではないと思う。)テロで死ぬことと、事故や病気で死ぬことは、違う。それでも 'Don't look back in anger' を歌いあげた街である。死んだ理由を追求するだけではなく、愛しい人の死後、残された人々の時間がどう流れていくのか、少しだけ先のことを改めて見据えるための作品だったように思う。

 ところで、今回の上演はRelaxed Performanceと呼ばれるもので、主に精神障害や発達障害、その他何らかの疾患を抱えた人を対象としたバリアフリー対応の回だった。劇場ドアを常に開けておいたり、音響や照明のレベルを抑えたり、上演時間や休憩についてなるべく正確な時刻をアナウンスしたり、と興味深い試みがなされていた。未就学児もOKで、乳幼児連れの観客もいた。結果論だけれど、こうした要素は今回の作品にとってはとても良い影響をもたらしたと思う。個人的には、三幕でずっと客席の赤ん坊がぐずっていた(エミリーは出産のときに死んでしまう)ことが号泣もののハプニングだ。

 ところでその2としては、マンチェスター行き自体も感慨深かった。マンチェスター中心地のひとつ前の駅、ストックポートはスティーヴンスの出身地で、彼はこの土地を舞台とする作品をいくつか書いている。代表作である On the Shore of the Wide World もその一つで、あの芝居の登場人物が暮らしていたのかぁ、と車窓から駅をながめてしんみりしていた。(スティーヴンスが暮らしていた、という感動は実はあまりなくて、妙なもんである。)今後もマンチェスターへ来ることは何度もあるだろうし、機会があれば一度、この駅にも降りてみたいと思っている。

うつかも

 かも?と言っている時点ではまだ元気なので、大丈夫。本当にやばくなったらブログどころではない。

 到着から三週間の疲れが着実にたまっている自覚はあったものの、ようやくスーパーバイザーとの面談も終えて本格始動というタイミング、周囲の顔と名前もだいたい一致してくるという時期、あまり休みたくないなぁと思っていたのが正直なところ。とはいえ根気詰めてがりがり机に向かってるというわけではなく、夜にはイギリスのドラマやコメディを見たり、好きな本を読んだりしていたし、それが息抜きや休息だと思っていた、し、休息とはそういうもんだろうと思う。

 今朝、アラームの時間を過ぎての寝坊。起きたはいいものの、何をするにもえらくしんどい。ぼーっとしてばかりもいられぬと、遅い朝食をとり、GPの予約やドコモの契約やらで数件電話をし、また掃除機でもかけてみたりするものの、昨日までと明らかにテンションが違う。外出の準備が鈍い。

 昨日は人文系院生のセミナーが二つ連続であり(早い時間の方は教員主導、遅い方は学生主導)夕方は学期初めということで学内バーで飲みに。先輩も同期もみないい人たちで、パブ飲み社交のハードルが高い現状ながら、それなりに会話を楽しむことはできたように思う。先週ゼミ同期であるトーマス兄さん(年齢は知らんがそういう雰囲気なのだ)に、だいたいイギリス人はパブでは天気か政治の話しかしないから困ったらそういう話題を振ればいいし真剣に聞くこともないよ、という優しいけどシニカルなアドバイスを受けたのだが、ほんとにみんなテリーザ・メイのスピーチのニュース映像をネタにして盛り上がってたので、兄さんの言うことは信用しようと思った。

(ついでに、トーマス兄さんはこのアドバイスの後、私の研究テーマの詳細を丁寧に聞いてくれた。「会話 'chat'」に混ざるのが苦手だと話した私への気遣いなのだろうが、それはとても印象に残っている。)

 ロンドン出身の人とオリンピック大変だね(彼は会期中エジンバラに逃げたらしい)という話をしたり、日本へ旅行してみたいなという話を振られたり、ベイビーメタルって知ってる?と聞かれたり、バー内で流れている(たぶんあまりメジャーではない)80年代のUKロックのMVを見て笑ったり、そういう風にその場にいられたことは、この三週間のうちのささやかだが大きな変化だ。今までで一番楽しかった、と言えるし、でもやっぱり今までで一番疲れていたように思う。

 留学経験があるということの慣れもあり、到着直後の目の前が真っ暗という状況をむかえずにすんだ分(幸い寮関係の災難には仲間がいた)、生活すべてにおいて楽しい部分だけ、あるいは何か「生産的な」苦労だけを見ていたような気がする。ずーっと気を張っている状態でもある。その糸が切れるとき、つまり鬱がやってくる時が恐ろしく、私は大丈夫だと常に言い聞かせている。

 10日前の私グッジョブ、だったのは大学のカウンセリングセンターへの登録と予約を済ませており、折よく今日が初回のセッションとなったからだ。もともと、自分のコンディションを伝えること、緊急時に利用できる段取りを整えておくことが目的だったが、結局やはりこのブログに書いてきたこと、出発前や日本での院生生活、それから精神科に通院しだしてからのことを話すことになった。

 私が双極性障害という病気で一番苦労するのは、負荷がかかっているときほど、どういう感情や状態、行動が病気のために生じていて、何がそうではないのかの区別がつかなくなることだ。すごく興奮している反面、不安だらけで些細な失敗にひどく落ち込む、という今の状態は、バイポーラーの二極のように思えた。カウンセラーは一言、それはいたって「ノーマル」な状態で、留学生だけでなく新入生がみな抱えている気持ちだと言った。少し泣いた。

 とはいえ、健康な人なら自然に治るケガが膿む、のが辛いところで、油断は禁物だと改めて思う。でも、鬱の波に構えすぎるのも、それはそれでひどくプレッシャーになるようだから、波が来たら抗うことなく流されよう、くらいの気持ちもたぶん必要なのだろう。

 そんなわけで、セッション後はまっすぐ寮へ戻り、ジーンズのまま寝て起きたら夜だった。過眠傾向も少し怖いけど、寝れるときは寝た方がいいのかもしれない。午後休の日、ということにする。

 

Richard Gadd, Monkey See Monkey Do

 去年のエジンバラフェスティバルでフリンジのコメディアワードを取り、全国ツアーを経て今年もエジンバラ凱旋公演が行われたこの作品、舞台映像をテレビ放送したものが9月末までNOW TVに上がっていた。これを見るために銀行のデビットカード作成を急いだといっても過言ではない。そして映像とはいえ、その価値があるパフォーマンスだった。

 Gaddの作品は一昨年、2015年のエジンバラフリンジでWaiting for Gaddを観ている。文字通りタイトルに偽りなし、の良作で終演後のお酒がとても美味しかった。当時全くノーチェックだったこの作品に誘ってくれたイナムラさん*1から、Monkey See...こそ絶対見るべき、と折に触れて案内を受け取り、この一年彼の動向を気にかけていた。

 コメディ業界だけでなく、パフォーマンス界隈全体が彼に注目しているように感じていた。一つにはもちろん作品のクオリティの高さだが、もう一つはおそらくテーマの問題だろう。数年前から、イギリスの演劇/パフォーマンスの傾向としてメンタルヘルス(精神疾患/障害)を主題とする作品が増えたことはLyn Gardnerなどが指摘してきている。また、こちらは舞台芸術に限らないだろうが、フェミニズムのある種の延長として(特に異性愛男性の)マスキュリニティの問題への注目が増している。Monkey See...は結果としてこの両テーマに深くかかわる作品となっており、なおのこと耳目を集めたのだろうと思う。

 「結果として」ということを強く強調しておきたい。この作品はGaddのきわめて個人的なトラウマに基づいて作られているからだ。メンタルヘルスとマスキュリニティの両テーマに彼が取り組むことになったのは必然だったのかもしれないが、しかしそもそもこの作品が生まれるきっかけ自体がなければよかったのに、とどこかで考えてしまう。私はすでにレビューやインタビューから多くの情報を得て映像を観たわけで、その意味である程度構えることができた。この作品は、Gaddが学生時代に受けた男性からの性的暴行の経験が軸になっている。

 トレッドミルの上で走り続けるアスリートに扮するGaddは'Man's Man'コンペティションなる競技の出場者である。トレーナーの指導を受け「男らしい男性」を体現すべく日々訓練を続けている。強靭な肉体はもちろん、マルチタスキング、コミュニケーションスキル、写真写り、スピーチ、あらゆる面が審査の対象となるようだ。次回の優勝候補と目されるGaddはしかし、しばしば「モンキー」の声に心を乱され、トレーニングを中断してしまう。

 トレーニングと並行して映像に映し出されるのは、3年前にGaddが受けたカウンセリングセッションの録音をボイスオーバーに使用した、アニメ風の患者とカウンセラーの会話シーンである。*2最初は状況がよくわからないのだが、セッションが進むにつれGaddがひどく不安定になり、ついに事件のあった日のことを少しだけ、でもそれで十分すぎるほどに語る。音声だけならば聞くに堪えないだろうが、画面の滑稽さに笑っていいのかなんなんだか、奇妙な気持ちになる。

 映像の間も(というかほぼ全編を通して)Gaddはトレッドミル上で走り続けている。「男」になるためのトレーニングなのか、なにかから逃げているのか、何かを忘れようとしているのか、徐々に意味がぼやけていく。私が見たものはテレビ映像だったため顔のアップが多いのだが、額から流れる汗が涙のようにも見えて、激しい運動にも関わらずセッションの映像を背景にとても静かな場面が続く。

 ついにMan's Manコンペティションを迎え意気込みを尋ねられたGaddは、

'I have a "feeling"...'と話し出す。瞬間、そんな言葉を使うべきではない(例えば'state'の方がより男として適切である)とインタビューは中断、Gaddはトレッドミルから降りる。彼がそれに沿って走り続けざるを得なかった何か、つまりマスキュリニティの規範から降りるのだ。

 この記事は一応レビューの体裁をとっているけれど、やっぱり日記の感想なので、ラストのモノローグの詳細はぜひ直接作品を観てくださいと言いたい。その日彼の身に何が起こったか、事件から6年を経て彼のジェンダーやセクシュアリティに関わる事柄の何が変わっていったのか、それから「なんでコメディのフォーマットでこの話をしようと思ったんだろうね笑」という全く正直なコメントが、穏やかに語られる。

 すでに書いた通り、私はこうした個人のトラウマに根差した作品を観るとき、作品を作る以前にそもそもその辛い出来事が起こらなければよかったのに、と思う。でも、作品にすることで、笑いに変えることで変わるものがあるなら、ともに見届けたいとも思う。観客の役割ってそういうところにもあるんじゃないかなぁと、考えている。

 エンディングは、Gaddが彼にとりついているモンキーと一緒にサイクリングに出かける映像で終わる。一生消えることがない以上、どう付き合っていくかしかないのだ、という決意表明なのだが、周囲の白い目も気にせずゴリラの着ぐるみと戯れるほほえましい映像には、最後までコメディの精神を忘れぬ強さがある。

 

*1:イナムラさんによるGaddの紹介記事はこちら Go Johnny Go Go Go Part II: Richard Gadd

*2:あご人形というのか…?あごの部分に動眼と帽子をつけ、ちょうど口の部分ががさかさまになるよう、上下をひっくり返して撮影している。で、その口でしゃべる。

停電

 本当は、Richard Gaddのパフォーマンスの感想を書こうと思っていたのだけど、そのインパクトに匹敵する、というか単純に物理的にブログ書けるわけねぇという昨夜、停電ですよ、停電。入居前からトラブル続きの寮なのはこれまで書いてきた通り(書ききれてない)なのだけど、さすがに2017年イングランド第二の都市と言われる街の新設の寮で、停電、とは。

 夜の9時ごろ、突然電気が消えて、充電のあるラップトップとスマホだけが煌々と輝く。廊下の明かりはついてるので、部屋のブレーカーか何かの不具合かと思い隣のフラットへ行くとそっちも停電。階下の住人も何事かとぞろぞろ出てきている。夜間の管理人が、今点検を呼んだからとアナウンス、確かにすぐ来てはくれたものの30分ほどたっても直る気配がない。この時点で電気だけでなく水道が使えないこともわかる。

 徐々に広まるやばいなぁという空気の中、じゃあもうパブ行こうぜという声が同じフロアの女子たちから上がり、私もそれに乗り、気づけば同じ棟の寮生が群れとなって避難。近場のパブのテラスからは寮の建物が見えるので、復旧したらすぐわかるし、と。

 1時間くらいかかるという話だったので、1パイント飲んで、一服して、あとはトイレ使えたらいいかくらいに思ってたものの、一向に明かりのつく気配はない。スモーカーが寄り集まり、お互いのタバコを一通り試しあうくらいにはヒマで(まだみんな自国から持ってきたタバコが残っている)、中国からの男子学生がどんどん酒を頼んでくるのに合わせ中国式干杯で一気飲みする程度には飲んだくれていた(この時一番景気よくコールをしていた中国人のアビーはその後パブのトイレで携帯を落としたらしい…)。怪我の功名というのか、すれ違う時に挨拶する程度だったご近所さん達と親しくなるきっかけになったのは良かった。

 はしゃいでばかりでもなく、真剣にクレーム送ることも考えないとね、という話もしている。うちの棟の入居者は留学生中心で、いやな話だが足元を見られているような対応を感じることは正直少なくない(出ていこうにも外国人にとって引っ越しのハードルは当然ながら高い)。この手のトラブルが少ないと思って寮に入ったのになぁとぼんやり思うものの、いやそもそもどこ持ちのフラットに入っても停電断水はねーだろ、と思い直す。

 ようやく棟の明かりがついたし、パブもそろそろ閉まるからと寮に戻って、部屋の電気や暖房がついたことにほっとする、もつかの間、水道が復旧してない。日付変わって日曜の深夜、もはや出来ることはないと顔も洗わずにベッドへ。翌朝10時、ようやくポンプが動く…。

 

ばたばた

 特に書くことがないと言えばないし、あると言えばある、というような、新学期の始まりを過ごしている。そもそも日記として始めているんだから特別内容を気にすることはないんだろうが、芝居を観てなんか言ったり書いたりするという生活がベースにあるので、芝居に行けていない今の状況は、特に何もないのと変わらない状態のように感じてしまう(日々の小ネタはツイッターでよくね?という)。

 芝居に関しては、そもそも今の時期は冬のプログラム発表を控えてオフシーズン気味であることと(もちろん面白そうな公演も少なくないけれど)、ロンドン遠征はrail cardが届いてからでないと交通費が高くついてしまうのと、バーミンガムの劇場/ヴェニューとしては11月が当たり月っぽく(forced entertainmentとMae Martinが来る)、みたいな理由で、今すぐ行かねばというモチベーションがあまり沸いていない。

 でも、おそらく一番の、あまり直視したくない理由は、院生生活のスケジューリングやタイムマネジメントがよくわかってないから、だろう。どんどこ送られてくる新入生向けイベントの情報に気圧され、キャリアサポートやら奨学金情報やらリサーチスキルワークショップやらが飛び交うメールにビビり、とにかく早く自分のペースをつかむとっかかりが欲しくて、すぐには何もできないことにすでにひどく焦っている。金曜日にスーパーバイザーとの最初の面談が控えている。ひとまずこの日をトラブルなく終えることが今週の目標で、あとはイギリスのコメディを見てよう(Backをはよ見ないと)、とハードルを大変低く設定しておく。

 インダクションウィークの院生生活tipsで一番残っている言葉は「よく寝てよく食べて、ホリデーに遊ぶのにギルティを感じるな」と「自分で自分を褒めろ」だった。ギルティを感じず、むしろ研究の一部だし、という心持で劇場に行けるよう、諸々早く整わないかなぁとじりじりと過ごしている。

 

追記

 そういえば今日ようやく寮の水道水が飲用可になったのだった。(工事の影響で今まで飲めなかった。)(ミネラルウォーターの配給はあった。)これで料理に気を使わなくて済むし、2リットルのペットボトルを四階の部屋まで毎日持って上がる苦労もなくなった。ところで寮は、造りが不安になるほどの勢いで建設が進んでおり、来週にも居住エリアは入寮できそうな気配である。私としては一刻も早くランドリーと郵便の人を不安にさせないようなレセプション(現在プレハブ)を作ってほしいのだけど、共有スペース系の完成はまだ先になりそう…。

一週間

 渡英からちょうど一週間、今日でウェルカムウィークも終わり。生活面のだいたいの手続きは済み、ようやく一息ついたところだ。

 残念なお知らせだが、今年度の演劇科の大学院の新入生は私一人らしい。この一週間、交流会系のイベントにいろいろと顔を出したが、どおりで見かけないわけである。近接分野で少し親しくなったのは、出版社で働く社会人学生のお兄さん(おじさん…?)で、クリエイティブライティングの博士課程の人だ。文学作品のページのレイアウトやスタイルについて研究しているとのことで、ぜひサラ・ケインやキャリル・チャーチルの作品について聞いてみたいと思う。(で、話していて改めて認識したんだけど、この辺の作品の実験性って、ポストドラマへ一足飛びする前にモダニズムちゃんと固めないとあかんなぁと思った。)

 今日は所属カレッジ(人文系全般が入るカレッジで、英文学や美術、歴史、地域研究などと並んで演劇科がある)のインダクションがあり、改めてスーパーバイザーと挨拶。グレアム先生(まだ直接はファーストネームで呼べていないけど)とは、1月に早稲田のシェイクスピアシンポジウムで会っており、その後合格が決まった4月に個人的にロンドンへ行った時にも日帰りでバーミンガムへ行って会ってきた。ちなみに4月の再会では駅からキャンパスまで迷子、約束の時間に大遅刻という大変な失態をやらかし、今日もそのことを謝ったほどなのだが、にこにこと笑いのネタにしてくれた。いいひとだ。グレアム先生は、肩書は教授なのだがバーミンガムには着任してまだ2年目、私がここでの最初の論文指導生となる。専門領域もごりごりの現代英演劇、戯曲研究の人なので、留学生としては初になるのだろうか。彼自身はバーミンガム大のOBでもある。年齢的に、ケインと同時期に在籍していたかもしれず、またディヴィッド・エドガーの教えを受けられた年代のはずで、いずれその話も聞けたらいいなと思う。

 コーヒーを片手に、最初の面談のアポをとり、今後の方針をざっくりと話した。年明けまでに、私の研究対象であるサイモン・スティーヴンスと過去20年程度のNew Writingに関する文献のLiterature reviewを書き上げること、をさっそく言い渡され、私にクリスマスホリデーはない、と若干顔が引きつる。

 演劇科に来たのに新入生いない、は若干どころではなくがっかりではあった。東京での院生生活で相当苦労したことの一つは(舞台芸術のみの学科ではなかったにせよ)周囲に演劇専攻の人が少なかったことだったからだ。まぁしかし、ここまでくるともうそういう星のもとに生まれたのだと開き直るしかないのだろうし、もちろん先輩院生はいるのだから、気長にやるしかないかなと思う。

(ところで、バーミンガム大学はシェイクスピア・インスティテュートがあり、シェイクスピアおよびエリザベス朝演劇/文学研究の人は少なくないはず。たぶん、演劇科、英文科、映画学科あたりで散らばっているっぽい。しかし出会わない。)