Lefty Tightly Righty Loosey by Fin Taylor at Soho theatre

観劇日:11月20日21時15分*1

 

 今週、ソーホーシアターでめぼしい演目は実は他にも二つあって、一つはUrsula Martinezら女性パフォーマー三人がお尻を向けてるポスターがインパクトあるWild Bore、もう一つはヴァギナモノローグのオマージュと思しきThe Butch Monologues。おそらくフェミ的安パイだろう上記二作に少し未練を残しつつ、思い切って賭けに出たのがこのフィン・テイラーさんのスタンダップだった。*2 *3

 今年のエジンバラフリンジが初演で、すでにそのレビューもいろいろ出ているのだけど、今作のアイデアを知った瞬間、これたぶん観とくべきやつや…の勘が働く。そのアイデアこそ「ぼく、左翼でいるの止めます」という冒頭の(文字通りの)パンチラインである。

 終わりの見えないポリティカルコレクトネス、際限なく増えるアイデンティティポリティクス、社会に特に影響を及ぼさない反資本主義的営為の「矛盾」をたたみかけ、結局思想というものはこの多文化社会を変えることはなくて、それを覆い隠すユートピア的ヴィジョンなんだ、と皮肉で締めてくる。

 もちろん、シニシズムに陥ってそれきりだったら、拗らせたノンポリとか確信犯的右派とかと変わらないわけで、中盤近くまで結構警戒しながら聞いていた。だけど、シスでストレートの男であることの「特権」って「罪」なのか?、と語る姿勢にはジョークと思えぬ真摯さがあって、もう少し見ていようと思った後半から、本当に落っこちるんではないかというレベルの崖っぷちを全力疾走するエピソードをぶちこんできて、政治思想を「持たない」とはこういうことを意味するのかと、口元が引きつる。あぁあなたの態度はただの拗らせやシニシズムではない、もっと深いところから考えこんで捻じれてブチ切れたのですね、と降参してしまった。(どういうネタだったかは、さすがに私も自分のブログに書くのははばかられるので、書きません。)

 わりと個人的な経験にがっつり刺さってしまってしまい、時に笑いを超えて、うーわーそれめっちゃわかる泣笑怒、というゾーンに入り、なんかあまりコメディを見た気がしないぐらいだった。自他ともに認める「リベラル左派」の人に足を踏まれた経験は一度や二度ではないし、私自身がそういう振る舞いをしてしまって途方に暮れることもあった。矛盾を突き詰めていくほど矛盾して、左派止めます宣言できたらどんなにいいだろうかと思ったことはある。でも当然ながら、私がそれをやっても拗らせた文化人たち以下にしかならないのも容易に想像がつくし、テイラーさんのように腹をくくれないのなら(もちろんそれが理想的とも思わないけれど)ただただぐるぐると悩むしかない。

 ひとつ例を挙げると、テイラーさんが黒人の友人と飲みに行ったとき、お店でブルースの演奏をしていたミュージシャンがみな白人で、友人が「これって文化収奪だよね」と言ったというエピソード。この種のPCの指摘に対する応答を私はずっと考えていて、いまだに答えはない。(エピソード中に語られるテイラーさんの答えにも、私は完全には同意できない。)文化芸術研究の仕事とはそういう問題を延々と考えることなのだ、とたえず確認し直すことが私にとっての政治的態度の在り方だし、テイラーさんが「左派止めて」もなお政治に関して全然楽になってないのも(そしてこれをコメディとしてしまうことも)彼の政治への向き合い方なのだと思う。

 ショウの途中で、テイラーさんが年下だとわかりすごい驚いた(1990年生まれかな)。30歳は超えてるだろうという誤解は、むすっとした髭面の宣材写真だけのせいではないと思う。この人がこの先何を考えていくんだろうと、とても気になっている。

*1:「月曜の夜にわざわざ!」といじられました。

*2:コメディ関係の情報はイナムラさんにお世話になっております。リンク:Go Johnny Go Go Go Part II: Fin Taylor

*3:あと、Wild Boreはこの評判だとバーミンガムツアーありそうだな、という気がしている。テイラーさんもあるかもだけど、こっちのコメディアンの人のツアー形式がまだよくわかってない。

Minefield by Lora Airias at Royal Court Theatre (downstairs)

観劇日:2017年11月11日19時半

 

 アルゼンチンの作家Lora Ariasが手掛けた、フォークランド戦争に従軍していたアルゼンチン、イギリス両国の退役軍人6名によるパフォーマンス作品。作品の名義はAriasになっているけど、スクリプトには、出演する六人の物語に基づく、とあるので、ドキュメンタリー演劇と観て良いのかなと思う。

 三人の元英国兵(うち一人はグルカ兵*1)と三人の元アルゼンチン兵が、軍への入隊から開戦、戦時中、そして戦後から現在に至るまでのそれぞれの経験を語っていく。並行して、今作のオーディションや稽古場での出来事を通じ、自身の(多くの場合トラウマ的な)経験に改めて向き合う過程も語られる。イギリスキャストは英語で、アルゼンチンキャストはスペイン語で語り、字幕には両言語(英語の語りではスペイン語、またはその逆)が表示される。

 もちろん、彼らの経験それ自体が非常に重くて(良いか悪いかはともかく)退屈することのないストーリーばかりなのだけれど、見せ方も工夫されている。例えば、戦時中までははっきりとイギリス、アルゼンチンキャストの間に境界(主には舞台上の待機スペースで)を引き、両者の語りが混ざらないよう注意深く構成されているが、戦後、特にPTSDに関わる語りなどは逆に両者の語りがオーバーラップするような仕掛けが施されている。アルゼンチンキャストの一人がビートルズのトリビュートバンドのドラマーだった、というところから楽曲の演奏シーンも多く、ビートルズが両者の文化的な共通体験であるのも印象深かった。(このドラマーの人は、戦艦ベルグラノの生存者でその経験を語るのだけど、その時のドラムのパフォーマンスが今作一番良いシーンだったと個人的には思う。)

 35年という時間が色んな意味で「絶妙」だったように思えた。戦時中20代だった彼らが60歳に差し掛かろうかという頃、負の感情が消えることは決してないのだけれど、軍人として生きた時間よりも各々のセカンドキャリアの人生の方が長くなっていて、戦争の記憶は徐々に過去のものになりつつもある。作品全体でも、戦時中の経験自体の語りよりも、戦後の出来事やトラウマとの葛藤、あるいは稽古期間を通じて改めて記憶や戦争体験に向き合うことについての語りの方が比重が大きかった。敵対していた者同士(そして現実に当時戦場で出会っていたかもしれない者同士)互いにすべて理解しあえることはないのかもしれないけれど、怒りや憎しみ以外の感情が舞台の上にあればこの作品は成功だと言えるのだろうし、実際そういった感情の動きは生まれていたと思う。

 私の観劇日はちょうど Remembrance dayで、その日だけだったのかわからないけど、イギリスキャストでポピーを衣装に着けている人がいた。私はこのポピーや戦没者追悼日にイギリスの人が思うことをまだよくわからない、全然(それはきっと靖国参拝とも終戦記念日とも自衛隊追悼式とも違うのだろう)。劇場に行く前、買い物をしたお店の店員さんが、前に並んでいたお客さんに「旧硬貨(先月1ポンド硬貨が切り替わりました)はもう買い物に使えないんですよ、ポピーのチャリティとかで使ってください」と言っていて、そういうものかぁとぼんやり思ったことと、あの出演者のポピーは妙に結びついている。

 あとこれLIFTのプログラムの一部で、欧州ツアーも控えている(もう終わった?)ようですが、こういう当事者出演というか自らが語るパフォーマンス系ってバービカンとかBACが得意そうだなという印象があり、ロイヤル・コートでの上演は作品傾向的にちょっと異色な気もします、が、どうなんでしょう。

 

追記:この公演は見切れの立見席で観ているので、上手半分くらいがほぼ見えないという状態だったので、演出的に大事なところを見落としている可能性があります。台詞は問題なく聞こえて、字幕も見えました。(Royal Court Downstairsは(演目にもよるようですが)当日券のみの10ペンスの立ち見席があります。豪快に見切れてたけど、10ペンスは強い。)

 

 

 

*1:この人がネパールの歌を歌うシーン(ここは字幕なし)はアジア系の表象としては微妙な気がしたのですが、歴史の知識に私は全く弱いのでものすごく的を外した感想かもしれないです。ただ、アジア系の人が出た時に自国の歌を歌うとか踊りを踊るというのはもうパターンなので、英語しゃべれる人なんだから、英語-スペイン語の領域に入っていてもいいのではとは思った。入りたくない、という向きがありえるのもわかりつつ。

Time Critical by Stan's Cafe at mac

観劇日:11月7日20時

 

 バーミンガムを拠点とするデヴァイジングシアターのカンパニー、Stan's Cafe*1。名前はちょくちょく聞くものの観る機会に恵まれなかった。実際 British Theatre Companies (bloomsbury, 2015) の紹介項でも、批評家の評価は高いけどあんまり大手紙に言及されてもいない、というような解説がされていたりするので、売れる一線を微妙に外しているのだろうか…と余計なお世話なことを考えつつ劇場へ。

 今作は、昨年のカンパニー結成25周年記念に作られた作品の再演。パフォーマーは二人、チェス盤とチェスクロックを挟んで向かい合い、一人は1991年から2017年までの世界史を、もう一人は同じ年代の個人史*2を語る。持ち時間は26分間*3

 方やソ連崩壊からユーゴスラビア紛争、ニュー・レイバーから911、ロンドン同時テロと主に欧米の歴史を語りまくり、方や大学卒業後カンパニーメンバーとの出会いから、作品製作、ツアー公演の思い出、劇団内外の人間関係のごたつきを語りまくる。エピソードの区切り良くクロックを止めたり、相手の語り(なぜかO・J・シンプソンの法廷での物まねをやりたがるとか)のうざさに勝手にクロックを止めたり、特に語ることがないので相手にターンを渡したりと、ゲームかスポーツかというようにスピーディに進行していく。また、おそらくカンパニーの結成記念作品だからだろう、個人史パートの節目にいくつかの過去作品の一部のパフォーマンスがある。2017年までたどり着けばゴールだが、私の観た回では2016年でタイムアップ。最後はものすっごい早口だった。

 大文字の歴史と個人史の対比だよねと言えばまぁそれまでではあるのだけど、当然ながら前者は後者を気にも留めないだろうが、個々人は「あの時何があったか」をよく覚えている。ツアーで訪れた地域と歴史的な事件とをうまくかみ合わせるように構成されていて、その駆け引きめいた両者のやりとりは結構スリリングだ。(チェコ、スロバキアの連邦解消当時に周辺諸国へツアーに行ったとき、旧東ドイツのボーダーで「私たち、ヨーロッパの『ニグロ』ですから」と言われて凍った、というエピソードが今回一番記憶に残っている…。)

 ただ、アイデアは好きなんだけど、いまいち乗れないなぁというのが観終わっての感想で、たぶんその感覚は、評価は悪くないのに大ヒットとはいかない、というところと重なってるような気がする。例えばForced Entertainment なり Complicite なりが実験性や革新性、ビジュアルや音響、言葉の美しさに注力している部分を、彼らはおそらくエンターテイメント性にその力を注いでいる。もちろん、Forced Entartaiment らがエンタメを重視してないわけでも、Stan's Cafeが実験性や美学的側面に全く欠けているわけでもない。RPGでいうところの「アビリティポイント」をどこに振る?というやつで、攻撃力にポイント入れ過ぎて、素早さとかが足りなくなるみたいな、ある種のバランス感覚のようなものだと思う。(あたりまえだが、攻撃力一点突破も持ち味としてはありである。)

 あとこれは再演最初の公演(かつ世界史を語る方のパフォーマーが変更になっている)のせいか、単純にミスが多かった。26分間というルール設定で、クロックを押すタイミングが重要なのに、ターンの切り替えがうまくいってないところがちょいちょい。(段取りこんがらがって即興っぽくなるのは、ゲーム的なものとして楽しんだけれど。)でも、次回作も観たいです。あと、バーミンガムといえば?で答えられるものが一つ増えたし*4

 

追記:ふと思い出したので。二人のパフォーマー、今回は世界史を語る方が若い女性(91年時点で3歳という台詞があったのでたぶん30そこそこ)、個人史を語る劇団創立メンバーは男性(91年に修士修了という台詞があったので若く見積もっても40台半ばか後半)。で、90年代後半の携帯電話の普及の話で、両者が同じ時期に初めて自分の携帯を持ったということがわかり、男性の方が二人の年齢差に、うわぁ、という反応をするというシーンがあったのでした。こういうあたりも、社会の変化と個人の経験が絡まるポイントだなぁと、面白かった。

 

*1:自分で間違えたので書いておきます。カンパニー名の発音は 'Stan's CAFF' 。労働者が集うイギリス式「カフェ」がモチーフで、'café' のような繊細さや見栄はありませんよ、とのこと。こちらもBritish Theatre Company参照。

*2:正確にはパフォーマー(初期メンバー)の視点から語られる劇団史です。

*3:これ、切り悪いなと思ったら、初演時は25分間でした。たぶん、再演で1年分語ることが増えたので、1分伸ばしたんだと思う。

*4:留学先が決まってもなお、バーミンガム名物的なものを何一つ知らず、マンチェスターならサッカーもロックバンドもいっぱいあるじゃんいいじゃん、と思っていました、すみません。

Bluebird by Simon Stephens at Katzpace

観劇日:10月29日19時半

演出:Rob Ellis

 

 全然知らない座組ながら、スティーヴンス作品だし観とかねば、という気分でちょっと無理して観劇を決めたのだけど、正直そこまで頑張っていかなくてもよかったかという感じではあった。全く若手のプロダクションで、客席も友人とか身内の人が多いかなぁという印象。観れないほど下手ではないけど、単純に経験不足の物足りなさで、うーん…という出来。

 とはいえ収穫もあって、一つはKatzpaceという初めてのヴェニューに行けたこと。バラ・マーケットのすぐそばのドイツ風レストランの地下に、ブラックボックス型のスペース。客席は100人にも満たないだろうか。ゾーン1エリアでこの規模のヴェニューがあるとは知らなかったので、ちょっとびっくり。まだ新しいのか、私も今回初めて名前を聞いたけれど、若手や小さいカンパニーの足掛かりになる場所ならいいなぁと思う。(でもハコ借りるのいくらかなぁ…てのは気になった。)

 もう一つは、Bluebirdの上演は初めて観たのだけど、改めて良い戯曲だなぁと再認識できたこと。スティーヴンスのデビュー作で、しかしながら本人がエッセイでネタにしているくらい、物語や構成がコーナー・マクファーソンのThe Weirともろ被りな上(各登場人物のパーソナルな語りが続き、クライマックスは主人公の娘の死についての話。Bluebirdはタクシー車内、The Weirはアイルランドのパブが舞台)、初演も1年しか違わず、どちらもロイヤル・コートが初演劇場。そして出来としてはThe Weirの方がやっぱり優れている。

 ただ、The Weirがかなり役者を選ぶ作品であるのに対し、Bluebirdってわりと誰がやっても面白いんじゃないの、という印象を持った。戯曲に忠実にやればそれで及第点には達するというか。タクシーという場の設定や、クライマックスの主人公と元妻の再会のあたりは、「語り」以外の要素で作品をサポートできるようになっていて、いい仕掛けだよなと思った。(The Weirはクライマックス含め、登場人物のモノローグが4~5人分ひたすら続くという構成なのでデリバリーの上手い人でないと厳しい、けど上手くいくと号泣もの。)あと、プロップ少なくても出来る形にしてあるのも若手にやさしい。(これはおそらく90年代当時のNew Writing若手作家への技術的要請だろうと思うけど。)

 観た後の感想がこれじゃ、プロダクションの人たちにはなんとなく申し訳ないのだけど、個人的には色々発見があって、交通費無駄にはならなかったですよと。

 

ひと月半

 金曜日に、二度目のスーパービジョンを終え、早くも当初の研究計画が迷子になっている。正直に、この点はちょっと自信がなくなってきました…と話したら、それは僕も難しいと思ってる…と返され、アイデア自体は捨てないまでも、他の要素に注力しましょうということに。

 全体的にとっちらかった状態で面談に向かったのだが(というか学部卒論時代から今まで万事整えて先生と会ったことがあっただろうか。私にとって指導教員との面談は成果報告ではなくレスキュー要請である。)とっちらかったなりに面白そうなアイデアも出てきてるよ、とポジティブなコメントをもらい、ちょっと持ち直す。

 スティーヴンスをやる上で、また今イギリス演劇をやる上で、避けて通れないのはヨーロッパ演劇との関係だ。(ぶっちゃけすごく避けて通りたかったんだけどやっぱりだめだった。)この話題、ディヴィッド・ヘアが良くも悪くもキーパーソンであるが、彼を初めとする幾名かのベテラン劇作家が、大陸ヨーロッパの舞台作品は英演劇の伝統を脅かしている、という考えを持っていることは、しばしば演劇評論の枠を超えて話題になっている。(ヘアが表立って意見を言うので彼一人がえらく目立っているけれど、この感覚を持ってる演劇関係者は実は少なくないのではないか、という気もする。気のせいかもしれないが。)

 ヘアの一連の議論に対してはすでに多くの批判があるので、ここで私が新たに言うことは特にないのだけど、ただ、大陸ヨーロッパの演出家に対するヘアの不快感の一つは、戯曲が軽視されていると思われる上演にあるようで、実はその苛立ちはわからなくもない。以前東京で観たとある古典作品の上演で、台詞をハサミで切り取ってテープでつなぎ直したみたいな舞台だなぁ、と思ったことがある。いやな意味で。もちろんそれは、その作品に対するモチベーションの持ち方が、私とその演出家とでは違うということなのだけれど、そう思えるのは観劇後時間が経ってからであって、劇場を出てすぐはむっとした気分を抱えていたのを覚えている。(私わりと戯曲中心主義なので、テキストに対してfaithfullな上演を好むタイプです。)

 積極的にフォローしたいというわけでもないのだけど、戯曲の扱いについての不満はちょっとわかる、と思いながらヘアの議論を見ている。とはいえヘアの意見に賛成できないのは、彼がかなりおおざっぱに演出美学の議論を、文化アイデンティティをずるっと通り越してイギリスの「古典」や「伝統」、はては「国家」の概念にまで結び付けてしまうところだ。ブレキジット渦中の今、なおのこと美学と政治の結びつきには慎重になるべきで、逆に言えば美学と政治が切り離せないからこそ、両者をまるごと一緒に扱うことには気を付けなければと思う。

 ヨーロッパのことを書くのなら、ヘアの引用はチャプターの冒頭だね、なんて話を(先生気が早いです)していたのだけれど、なんというか社会派演劇の重鎮をよりによってこの文脈で引くことになるかと思うと、ちょっとめまいがする。面談を終え、論文も迷子になるけど、作品だって作家だってとっちらかってるよね、とぼんやり思いつつバスに乗りシティセンター行って、最後の最後の夏物セールでシャツ買いました。十月もサマータイムも終わります。

 

The Seagull by Anton Chekhov (Simon Stephens's version) at Lyric Hammersmith

観劇日:2017年10月22日14時半開演

演出:Sean Holmes

 

 レビューを流し読むと'funny'という単語が目についたところから予感はしていた。チェーホフ四大戯曲を「喜劇」としてやろうという試みで『かもめ』ならば*1、と、ひとつ期待を込めて劇場へ行ったら、全くその通りだったので、個人的には満足である。そう、痛コスチャだ。

 私は、コスチャは中二病だと確信を持っている。自作の戯曲を身内上演して微妙なダメ出しや理解をもらうとか高校生が勢いでバンド組んで自作曲やっちゃうやつだし、カモメを殺すのだって「むしゃくしゃしてやった、後悔はしていない」だし、ニーナには置いて行かれるし、マザコンだし。終幕で自殺してしまうことは悲劇的だけれど、思いとどまって10年生きたらこの話は完全に彼の黒歴史だ。嫉妬し苦悩する若き作家、という定番の描かれ方にどうにも違和感があったのが、しかし今回解消された。

 流行りのテクノ系バンドのMVのコピーのような一幕の劇中劇(コスチャがエレキギター弾きながらアンプにいかにもな風で腰かけている)。二幕、迷彩柄のライフルを抱えてスキニーパンツと革靴に半裸ジャケットといういで立ちで登場、かもめの死体はビニール袋に突っ込まれ、か弱さのかけらもないそのへんの鳥である*2。三幕のアルカージナが手当てをする様子は微笑ましいが、しかしどう見ても小学生男子と母親の図である。(アルカージナもしっかり情緒ベースの造形だったので、なんというかとても似たもの親子である。)四幕でようやく作家のキャリアが出来てきたと思ったら、再会したニーナの方が女優として失敗したにも関わらず精神的にははるかに成長を遂げており、ルサンチマンのやり場もない。こういうラインで読み進めると、ラストシーンはかなり飛躍に見えるのだけど、銃声をはっきりと聞かせて、アルカージナ含めその場の全員が自殺に気づく(ドールンのラストの台詞はトリゴーリンへの「確認」)という演出で、力業で持って行った。

 コスチャが変わると周囲も変わる、で、とりわけニーナとアルカージナはとても良い役作りになっていたと思う。ニーナは芯があって、自尊心をきちんと持っているタイプ。十代を謳歌してる感じの元気の良さで、アルカージナの嫌味やかもめの死体にびくともしない。ただその幼さゆえに、ほいほいとモスクワへ行ってしまうことになる。コスチャ、トリゴーリンともに、ニーナとの恋愛関係のニュアンスはほぼ無くなっていて(というか、アルカージナを例外として、登場人物の惚れた腫れたのプロットは全体的に抑えめ)(なのでトリゴーリンとのキスシーンは、今問題のショービズセクハラをちょっと連想させますが…)かなりはっきりと女優キャリアに邁進する女性として描かれている。四幕の「私はかもめ…」のシーンも、精神的に病んでいるようなフラジャイルな様子はなく、だからこそトリゴーリンに描かれた「かもめ」のイメージに囚われて続けている狂気を感じる。

 アルカージナは、この人田舎に戻るとビッグマウスだけどモスクワでは二流だろと思っていたのだけど、ほんとにそういう感じに描かれてて笑った。コスチャがトリゴーリンに嫉妬するように、彼女はニーナに嫉妬するわけだが、それは単にトリゴーリンとの三角関係やコスチャを取られることに対してだけでなく、ニーナの女優としての可能性も嫉んでいる。ニーナにせよコスチャにせよ、若い才能をスポイルするタイプの人が「大女優」とは個人的にあまり思えないので、この良くも悪くも地に足の着いた造形は面白かった。演出上の興味深い仕掛けは、女性登場人物の中で彼女だけが白人キャスティングだったこと。黒人であるニーナとの対比は暗に彼女のキャリアが白人特権かもしれないと匂わす。

 衣装美術は現代、でも地域は特定できない。(夏場のバカンス風のシーンがあるので、ロシアとしているわけではなさそう。)ステーヴンスのバージョンが、オーソドックスな翻訳からどれくらい変えているかはこれから読んでみるけれど、少なくともプロット、ストーリー、登場人物の変更はなし、ただ台詞は意訳がかなりありそう。(いわゆる言語上の翻訳者は別にクレジットにのっています。)客席は土曜マチネながら、わりあい空きがある。それがプロダクション自体の評判によるのか(レビューは概ね高評価)、『かもめ』やチェーホフの人気によるのかはよくわからない。(感覚的に、同時代の古典ではイプセンの方がロンドンでの上演は多い気がする。)解釈に関しては、私は自分の観たい『かもめ』が観れて満足だけれど、もっとクラシックなテイストで楽しみたいという向きもあるのかもしれない。それに、がっつり解釈同じで予想通りというのも、喜び半面、意外性がなかったのも本音ではある。

*1:「喜劇」としてチェーホフを、というのはケラさんが長く取り組んでいる試みでもあると思うのだけれど、残念ながら『かもめ』は見逃している。『ワーニャ伯父さん』は渡英前に滑り込みで観て、良い上演だと思ったけれど、声出して笑うというよりしんみりする滑稽さを私はより感じてしまった。

*2:学部時代、ブライトンという海辺の街にあるサセックス大学に一年留学していたのだが、キャンパスにかもめがあほほどいた。人の食べ物を奪い、いたるところに糞を落とし、日本で見るかもめより二回りはでかく、凶暴さはカラス、数はハト並み、新入生オリエンテーションで「サンドイッチを食べながら歩くときは背後に気をつけよ」と注意されたほどである。当時履修していた戯曲講読の授業で『かもめ』を読み、そりゃいらついて殺したくもなるわ、と心底納得した。

Every Brilliant Thing by Duncan Macmillan with Jonny Donahoe at Orange Tree Theatre

観劇日:2017年10月14日19:30

演出:George Perrin

 

 二年前のエジンバラフェスティバルで情報を見かけたのが最初。脚本のダンカン・マクミランは『1984』の舞台版翻案*1が素晴らしく、この人の新作なら!とチケットを取ろうとしたらすでに全日完売。次の遭遇は今年の春、飛行機の機内上映でこの作品のニューヨーク公演(HBOのドキュメンタリーでした)の映像を発見し鑑賞。映像越しにもすごく良い作品で、公演情報を調べたらまだツアー中ということがわかる。さて渡英後まもなく、友人のツイッターからロンドン公演のリンクが流れてきて、これはいかねばと二年越しのリベンジ決行、それが今回の観劇となる。

 映像を見ていたので知っているのだけど、これはいわゆる観客参加型演劇だ。開場中、出演者のジョニー・ドナホー*2が観客ににこにこと話しかけながら紙片を配っている。作品本編で観客が読み上げるためのものなのだが、二年もツアーをやってきた成果であろう、多くの観客はどうやらその仕掛けを知って受け取っている風だった。

 何かのインタビューで、ドナホーの個人的なエピソードを交えた作品だと読んだ。ある男性の半生で、鬱病の母親が自殺未遂を繰り返してきたこと、そのことが彼の人生にどのような影響を与えてきたかを、(戯曲上は)ナレーターであるドナホーが語る。母親が初めて病院に運ばれた時から、彼は「素晴らしいこと」のリストを作り始める。そのリストの番号をドナホーが口にすると、対応する紙片を持った観客はそこに書かれている「素晴らしいこと」を読み上げるのだ。(「夜更かししてテレビを見ること(だったかな)」という紙を読み上げた人の言い方がえらいだらだらした感じで、笑ってしまった。)

 愛犬の安楽死に始まり、母親の入院と父親との会話、スクールカウンセラーとのやりとり。大学図書館で恋に落ちた女性と結婚し、別れ、リストの数は限界を迎え、自分自身もうつ状態に陥り、ついには母親の死に面し、その後また新たに「素晴らしいこと」がリストに加えられるまで、という濃密な時間の流れを、一時間という短い時間にもかかわらず、ゆったりと穏やかに作り上げる。

 ドナホー以外の登場人物は観客が引き受ける。「こうして(こう言って)ください」というお願いがある場合もあれば、観客のアドリブに任される場合もある。今回の私的MVPは、正直オフウエストエンドではあまり見かけないゴスともパンクともモードともつかぬファッションのお兄さんで、開場時から客席で異彩を放っており、しっかり最前列に座り、案の定獣医役で捕まっていた。彼の真っ黒のジャケットが愛犬役になり、それを抱えたドナホー少年の前で安楽死の注射を打たねばならんのだが、とっさに「あそこ!」と声を上げ、視線をそらしたすきに注射を打つというファインプレーを決めていた。

 リチャード・ガッドのパフォーマンスの記事でも書いたけれど、この数年イギリスではメンタルヘルスを扱った舞台作品は目立って増えている。私個人の感覚で言えば、メンタルヘルス自体の理解は、日本は言わずもがな欧米諸国と比べてもイギリスはかなり進んでいると思うのだけれど、それでも近年になって多くの作品が発表されることの意味を考えてしまう。(ただ、ガッドの場合は男性間性暴力も中心テーマなので、この作品と簡単に比較は出来ないとは思う。)社会の認知度と作品化することはもちろん別のレベルのことではあるけど、一方でアーティストの精神疾患のエピソードがことさらフューチャーされつつ、他方病気自体は作品テーマにはならず、まして精神疾患の理解が進んでいるとは思えない日本の状況を振り返ると、デワノカミにはなりたくないけど、いろいろ思うところはある。

 

*1:来年かな?小川絵梨子さん演出で東京公演がありますね。

*2:調べてて知ったんですが、彼キャリアとしてはコメディアンなんですね。スタンダップのスキルが巧みに使われています。