ひと月半

 金曜日に、二度目のスーパービジョンを終え、早くも当初の研究計画が迷子になっている。正直に、この点はちょっと自信がなくなってきました…と話したら、それは僕も難しいと思ってる…と返され、アイデア自体は捨てないまでも、他の要素に注力しましょうということに。

 全体的にとっちらかった状態で面談に向かったのだが(というか学部卒論時代から今まで万事整えて先生と会ったことがあっただろうか。私にとって指導教員との面談は成果報告ではなくレスキュー要請である。)とっちらかったなりに面白そうなアイデアも出てきてるよ、とポジティブなコメントをもらい、ちょっと持ち直す。

 スティーヴンスをやる上で、また今イギリス演劇をやる上で、避けて通れないのはヨーロッパ演劇との関係だ。(ぶっちゃけすごく避けて通りたかったんだけどやっぱりだめだった。)この話題、ディヴィッド・ヘアが良くも悪くもキーパーソンであるが、彼を初めとする幾名かのベテラン劇作家が、大陸ヨーロッパの舞台作品は英演劇の伝統を脅かしている、という考えを持っていることは、しばしば演劇評論の枠を超えて話題になっている。(ヘアが表立って意見を言うので彼一人がえらく目立っているけれど、この感覚を持ってる演劇関係者は実は少なくないのではないか、という気もする。気のせいかもしれないが。)

 ヘアの一連の議論に対してはすでに多くの批判があるので、ここで私が新たに言うことは特にないのだけど、ただ、大陸ヨーロッパの演出家に対するヘアの不快感の一つは、戯曲が軽視されていると思われる上演にあるようで、実はその苛立ちはわからなくもない。以前東京で観たとある古典作品の上演で、台詞をハサミで切り取ってテープでつなぎ直したみたいな舞台だなぁ、と思ったことがある。いやな意味で。もちろんそれは、その作品に対するモチベーションの持ち方が、私とその演出家とでは違うということなのだけれど、そう思えるのは観劇後時間が経ってからであって、劇場を出てすぐはむっとした気分を抱えていたのを覚えている。(私わりと戯曲中心主義なので、テキストに対してfaithfullな上演を好むタイプです。)

 積極的にフォローしたいというわけでもないのだけど、戯曲の扱いについての不満はちょっとわかる、と思いながらヘアの議論を見ている。とはいえヘアの意見に賛成できないのは、彼がかなりおおざっぱに演出美学の議論を、文化アイデンティティをずるっと通り越してイギリスの「古典」や「伝統」、はては「国家」の概念にまで結び付けてしまうところだ。ブレキジット渦中の今、なおのこと美学と政治の結びつきには慎重になるべきで、逆に言えば美学と政治が切り離せないからこそ、両者をまるごと一緒に扱うことには気を付けなければと思う。

 ヨーロッパのことを書くのなら、ヘアの引用はチャプターの冒頭だね、なんて話を(先生気が早いです)していたのだけれど、なんというか社会派演劇の重鎮をよりによってこの文脈で引くことになるかと思うと、ちょっとめまいがする。面談を終え、論文も迷子になるけど、作品だって作家だってとっちらかってるよね、とぼんやり思いつつバスに乗りシティセンター行って、最後の最後の夏物セールでシャツ買いました。十月もサマータイムも終わります。

 

The Seagull by Anton Chekhov (Simon Stephens's version) at Lyric Hammersmith

観劇日:2017年10月22日14時半開演

演出:Sean Holmes

 

 レビューを流し読むと'funny'という単語が目についたところから予感はしていた。チェーホフ四大戯曲を「喜劇」としてやろうという試みで『かもめ』ならば*1、と、ひとつ期待を込めて劇場へ行ったら、全くその通りだったので、個人的には満足である。そう、痛コスチャだ。

 私は、コスチャは中二病だと確信を持っている。自作の戯曲を身内上演して微妙なダメ出しや理解をもらうとか高校生が勢いでバンド組んで自作曲やっちゃうやつだし、カモメを殺すのだって「むしゃくしゃしてやった、後悔はしていない」だし、ニーナには置いて行かれるし、マザコンだし。終幕で自殺してしまうことは悲劇的だけれど、思いとどまって10年生きたらこの話は完全に彼の黒歴史だ。嫉妬し苦悩する若き作家、という定番の描かれ方にどうにも違和感があったのが、しかし今回解消された。

 流行りのテクノ系バンドのMVのコピーのような一幕の劇中劇(コスチャがエレキギター弾きながらアンプにいかにもな風で腰かけている)。二幕、迷彩柄のライフルを抱えてスキニーパンツと革靴に半裸ジャケットといういで立ちで登場、かもめの死体はビニール袋に突っ込まれ、か弱さのかけらもないそのへんの鳥である*2。三幕のアルカージナが手当てをする様子は微笑ましいが、しかしどう見ても小学生男子と母親の図である。(アルカージナもしっかり情緒ベースの造形だったので、なんというかとても似たもの親子である。)四幕でようやく作家のキャリアが出来てきたと思ったら、再会したニーナの方が女優として失敗したにも関わらず精神的にははるかに成長を遂げており、ルサンチマンのやり場もない。こういうラインで読み進めると、ラストシーンはかなり飛躍に見えるのだけど、銃声をはっきりと聞かせて、アルカージナ含めその場の全員が自殺に気づく(ドールンのラストの台詞はトリゴーリンへの「確認」)という演出で、力業で持って行った。

 コスチャが変わると周囲も変わる、で、とりわけニーナとアルカージナはとても良い役作りになっていたと思う。ニーナは芯があって、自尊心をきちんと持っているタイプ。十代を謳歌してる感じの元気の良さで、アルカージナの嫌味やかもめの死体にびくともしない。ただその幼さゆえに、ほいほいとモスクワへ行ってしまうことになる。コスチャ、トリゴーリンともに、ニーナとの恋愛関係のニュアンスはほぼ無くなっていて(というか、アルカージナを例外として、登場人物の惚れた腫れたのプロットは全体的に抑えめ)(なのでトリゴーリンとのキスシーンは、今問題のショービズセクハラをちょっと連想させますが…)かなりはっきりと女優キャリアに邁進する女性として描かれている。四幕の「私はかもめ…」のシーンも、精神的に病んでいるようなフラジャイルな様子はなく、だからこそトリゴーリンに描かれた「かもめ」のイメージに囚われて続けている狂気を感じる。

 アルカージナは、この人田舎に戻るとビッグマウスだけどモスクワでは二流だろと思っていたのだけど、ほんとにそういう感じに描かれてて笑った。コスチャがトリゴーリンに嫉妬するように、彼女はニーナに嫉妬するわけだが、それは単にトリゴーリンとの三角関係やコスチャを取られることに対してだけでなく、ニーナの女優としての可能性も嫉んでいる。ニーナにせよコスチャにせよ、若い才能をスポイルするタイプの人が「大女優」とは個人的にあまり思えないので、この良くも悪くも地に足の着いた造形は面白かった。演出上の興味深い仕掛けは、女性登場人物の中で彼女だけが白人キャスティングだったこと。黒人であるニーナとの対比は暗に彼女のキャリアが白人特権かもしれないと匂わす。

 衣装美術は現代、でも地域は特定できない。(夏場のバカンス風のシーンがあるので、ロシアとしているわけではなさそう。)ステーヴンスのバージョンが、オーソドックスな翻訳からどれくらい変えているかはこれから読んでみるけれど、少なくともプロット、ストーリー、登場人物の変更はなし、ただ台詞は意訳がかなりありそう。(いわゆる言語上の翻訳者は別にクレジットにのっています。)客席は土曜マチネながら、わりあい空きがある。それがプロダクション自体の評判によるのか(レビューは概ね高評価)、『かもめ』やチェーホフの人気によるのかはよくわからない。(感覚的に、同時代の古典ではイプセンの方がロンドンでの上演は多い気がする。)解釈に関しては、私は自分の観たい『かもめ』が観れて満足だけれど、もっとクラシックなテイストで楽しみたいという向きもあるのかもしれない。それに、がっつり解釈同じで予想通りというのも、喜び半面、意外性がなかったのも本音ではある。

*1:「喜劇」としてチェーホフを、というのはケラさんが長く取り組んでいる試みでもあると思うのだけれど、残念ながら『かもめ』は見逃している。『ワーニャ伯父さん』は渡英前に滑り込みで観て、良い上演だと思ったけれど、声出して笑うというよりしんみりする滑稽さを私はより感じてしまった。

*2:学部時代、ブライトンという海辺の街にあるサセックス大学に一年留学していたのだが、キャンパスにかもめがあほほどいた。人の食べ物を奪い、いたるところに糞を落とし、日本で見るかもめより二回りはでかく、凶暴さはカラス、数はハト並み、新入生オリエンテーションで「サンドイッチを食べながら歩くときは背後に気をつけよ」と注意されたほどである。当時履修していた戯曲講読の授業で『かもめ』を読み、そりゃいらついて殺したくもなるわ、と心底納得した。

Every Brilliant Thing by Duncan Macmillan with Jonny Donahoe at Orange Tree Theatre

観劇日:2017年10月14日19:30

演出:George Perrin

 

 二年前のエジンバラフェスティバルで情報を見かけたのが最初。脚本のダンカン・マクミランは『1984』の舞台版翻案*1が素晴らしく、この人の新作なら!とチケットを取ろうとしたらすでに全日完売。次の遭遇は今年の春、飛行機の機内上映でこの作品のニューヨーク公演(HBOのドキュメンタリーでした)の映像を発見し鑑賞。映像越しにもすごく良い作品で、公演情報を調べたらまだツアー中ということがわかる。さて渡英後まもなく、友人のツイッターからロンドン公演のリンクが流れてきて、これはいかねばと二年越しのリベンジ決行、それが今回の観劇となる。

 映像を見ていたので知っているのだけど、これはいわゆる観客参加型演劇だ。開場中、出演者のジョニー・ドナホー*2が観客ににこにこと話しかけながら紙片を配っている。作品本編で観客が読み上げるためのものなのだが、二年もツアーをやってきた成果であろう、多くの観客はどうやらその仕掛けを知って受け取っている風だった。

 何かのインタビューで、ドナホーの個人的なエピソードを交えた作品だと読んだ。ある男性の半生で、鬱病の母親が自殺未遂を繰り返してきたこと、そのことが彼の人生にどのような影響を与えてきたかを、(戯曲上は)ナレーターであるドナホーが語る。母親が初めて病院に運ばれた時から、彼は「素晴らしいこと」のリストを作り始める。そのリストの番号をドナホーが口にすると、対応する紙片を持った観客はそこに書かれている「素晴らしいこと」を読み上げるのだ。(「夜更かししてテレビを見ること(だったかな)」という紙を読み上げた人の言い方がえらいだらだらした感じで、笑ってしまった。)

 愛犬の安楽死に始まり、母親の入院と父親との会話、スクールカウンセラーとのやりとり。大学図書館で恋に落ちた女性と結婚し、別れ、リストの数は限界を迎え、自分自身もうつ状態に陥り、ついには母親の死に面し、その後また新たに「素晴らしいこと」がリストに加えられるまで、という濃密な時間の流れを、一時間という短い時間にもかかわらず、ゆったりと穏やかに作り上げる。

 ドナホー以外の登場人物は観客が引き受ける。「こうして(こう言って)ください」というお願いがある場合もあれば、観客のアドリブに任される場合もある。今回の私的MVPは、正直オフウエストエンドではあまり見かけないゴスともパンクともモードともつかぬファッションのお兄さんで、開場時から客席で異彩を放っており、しっかり最前列に座り、案の定獣医役で捕まっていた。彼の真っ黒のジャケットが愛犬役になり、それを抱えたドナホー少年の前で安楽死の注射を打たねばならんのだが、とっさに「あそこ!」と声を上げ、視線をそらしたすきに注射を打つというファインプレーを決めていた。

 リチャード・ガッドのパフォーマンスの記事でも書いたけれど、この数年イギリスではメンタルヘルスを扱った舞台作品は目立って増えている。私個人の感覚で言えば、メンタルヘルス自体の理解は、日本は言わずもがな欧米諸国と比べてもイギリスはかなり進んでいると思うのだけれど、それでも近年になって多くの作品が発表されることの意味を考えてしまう。(ただ、ガッドの場合は男性間性暴力も中心テーマなので、この作品と簡単に比較は出来ないとは思う。)社会の認知度と作品化することはもちろん別のレベルのことではあるけど、一方でアーティストの精神疾患のエピソードがことさらフューチャーされつつ、他方病気自体は作品テーマにはならず、まして精神疾患の理解が進んでいるとは思えない日本の状況を振り返ると、デワノカミにはなりたくないけど、いろいろ思うところはある。

 

*1:来年かな?小川絵梨子さん演出で東京公演がありますね。

*2:調べてて知ったんですが、彼キャリアとしてはコメディアンなんですね。スタンダップのスキルが巧みに使われています。

ソリダリティ

 入寮からひと月、いまだ完成しない建物、停電や断水と頻発するトラブル、さらに作業のためとはいえセキュリティガン無視で部屋を出入りする作業員と、寮生の不満は着々と蓄積していた。運営のマネージャーに意見を言いに行こうとか、大学に訴え出ようとか*1、話自体は出ていたものの、なかなか組織的に動けない中、ようやく完成するランドリーに洗濯機、乾燥機が一台ずつしか設置されないという話が広まる。それが着火点となって、いっきに集団抗議へ火が付いた。

 一階のフラットのキッチンが会場。中国人のアビーがミーティングのオーガナイザー、寮内の中国系学生のネットワークを存分に使い、呼びかけ数日で棟の半数が集まるほどの規模に(そしてミーティング中にもどんどん人を呼びに行っていた)。ドバイ出身の法学専攻のニキータが、英国政府のウェブサイトから住宅関係の法令を探し出し、今の寮の状態は違法だと検証、草稿を作り上げる。カリフォルニアからきたロバートが英語の確認。寮唯一のネイティブスピーカーとして、交渉の代表の役割を担ってくれた。寮の住人の知恵と怒りがものすごい勢いでまとめ上げられ、意見書完成、プリンター持ってる子がさっそく印刷してみんなで順番に署名する。拍手。

 しかし、騒がしい。最優先はランドリーの改善で合意を得たものの、冷蔵庫のサイズがフラットによって違うのがわかったりとか、キッチンのフライパンのテフロンがすぐはげると盛り上がったりとか、郵便物が届かないのはどうすればいいんだとか、部屋に携帯の電波が届かないとか、それはキャリアの問題じゃないのかとか、そういうしている間にポテチが部屋を駆け巡り、新たに来る人もいれば部屋に戻る人もおり、で、はたから見ればパーティやってるようにしか見えないんじゃないのと思う。アメリカの独立宣言が生まれた時ってこんな感じかな、とジョークを飛ばしていた子がいたが、私としては一揆とかそういうやつじゃないかと思った。(いや独立宣言起草もこんな感じだったかもしれず、案外一揆の方が神妙に打ち合わせをしてるのかもしれない。)ともかく、こういう勢いで物事は進むのである。

 うちの寮は留学生オンリーだ。アメリカ人のロバートがほぼ唯一の英語のネイティブスピーカー(インドや香港など、第二公用語が英語という国からの学生もいるが)となっているのはそのせいだ。そして、中国系ネットワークが駆使できたのも、いわずもがな中国人留学生の比率がかなり高いからだ。あまり考えたくはないけれど、でもみな一度は、私たちが外国人だから寮の対応がひどいのではないか?、という思いがよぎっている。今回の意見書ではこの点は触れていないけれど、たとえ戦略的と思われようと、とりわけ大学に対して意見を伝える際には強調する方がいいだろう、と私はロバート達に伝えた。幾名か、強く同意する人もいた。

 その場にいた全員が署名したわけではなかったが(要求過多だとして賛同しなかった人がいた)それでも70名ほどの寮の40名近くの署名が一夜にして集まった。中心となった三人には頭が上がらないし、寮生全体の機動力の高さもすさまじかった。私はなんだか勢いにのまれるような状態で、何もできてなかったなと反省する。もちろん、この意見書だけそう簡単に話が終わるとは思えないので(そのあたりはみんなけっこう冷静)次のアクションではより力になれたらと思う。

*1:ややこしいのは、大学運営の寮とは違い、この寮の運営は民間で、大学はあくまで提携を結んだだけ。他の大学運営の寮と同じ形で申し込みを出しているので知ったことかという話ではあるのだが、責任の所在がばらつくのはめんどくさい。

Heisenberg: The Uncertainty Principle by Simon Stephens at Wyndham's Theatre.

観劇日:2017年10月14日15時

演出:Marianna Elliott*1

 

 サイモン・ステーヴンスを研究対象にしてしまったために、ともかく彼の関わる作品は余すところなく観ねばと公演情報を漁ったところ、今月ロンドンで3本あるでということがわかり、仕事しすぎ、とリサーチャーはぼやいている。Heisenbergはわりと大きなプロダクションなので12月までやっているのだけど、この先の予定がわからないし、観れるうちに観といた方がいいだろうと、ロンドン行きを決める。

(すごいどうでもいい話ですが、以前ある英文学の先生に、ステーヴンスに強く関心はあるけど、好きとか愛とかと言われるとなんか違うと思う、と話したら、愛なくしてどうして研究しようと思うのか!と驚かれたのですが、どうなんでしょうか。研究対象を愛してやまないタイプの人と、好きか嫌いかと研究したいかは別という人と二通りあるようで、私は間違いなく後者です。)(でも好きですよ、愛ありますよ、スティーヴンス。)

 さてタイトルからして、ハイゼンベルグですか不確定性原理ですか、という心構えをし、しかしそのテーマではすでにマイケル・フレインの『コペンハーゲン』という傑作が英演劇には存在し、それを挙げるまでもなく、自然科学や数学といった演劇/文学的モチーフから一見かけ離れたと思われていたような分野の知にインスピレーションを受けた作品はやまほどあり、そもそもさすがにこの21世紀にモチーフが量子力学ってのは大学受験から文系一筋だった私でさえ古くね?と思うわけですが、いざふたを開けてみればタイトル何一つ関係ねぇじゃんというロマンチックラブストーリーであった。ある意味、期待を盛大に裏切られた。

 中年女性と老年男性の出会いからパートナーになるまでを90分でやるもんで、プロットがかなりとっちらかっている印象。前半、妙に女性側がなれなれしく男性に接し(ツイッターに投げた感想では、ヤクきめてるんじゃないか、と書いてしまったのですが)それが受け入れられているのも妙な感じだし、その態度の理由が彼女が詐欺を働こうとしていたという秘密の暴露もメロドラマあるあるすぎてどうなんだ。そしてこのぶれぶれな二人の態度や関係を「不確定」と呼ぶなら、お前にとって「確定」されたものってなんだねと問いただしたくなる。

 悔しいのはステーヴンスの筆力で、台詞回しに関してはものすごく上手いものだから、やっぱりダイアログ聞いちゃうし、いい台詞だなぁとしんみりしちゃったりもするわけです。そもそも(私の認識では)彼は奇抜なアイデアやユニークなストーリーで魅せるというより、丁寧な台詞の言葉が魅力の作家なので、ベタでも実験的でもそれなりに見せる土台があるんだなと思う。

 Marienna ElliottとはThe Curious Incident of the Dog in the Night-time以来でしょか。わりと似ていて、削ぎ落した美術に照明の美しさでシーンの変化を魅せていく。場面を役者のダンスで接いでいくのはいいアイデアだと思ったけど、ダンス自体の質はあまり。というか、きっちり(戯曲にある言葉や感情を度外視して)コレオグラフすればいいのにと思う。

 一昨年アメリカで初演して、オフからブロードウェイへ進出し、そこからのウェストエンド公演なので、当然ながら英米ともにレビューの評判は上々。うーん、ロマンチックラブに振るならそれはそれで、もうちょっとやり方があるような気もするんだけど…(とりあえずタイトルとかさ)。

 

 

*1:公演情報は自分の関心のある部分だけメモとして書いているので人の参考にはたぶんあまりならないと思います。すみません。

Our Town by Thornton Wilder, Royal Echange Theatre Manchester

 マンチェスターのリージョナルシアターが『わが町』をやるのか、というのはレビューが出た時からずっと頭に引っかかっており、いずれにしてもマンチェスターには行かなきゃいけないんだから(ステーヴンスの地元で、彼自身Royal Exchangeと縁が深い)と、思い立って日帰り観劇を敢行。といっても終電が早いだけで、距離で言えばロンドンよりも近い。

 ずいぶん前に新国立で観た宮田慶子演出『わが町』はミニマルな舞台美術によって美しさを見出そうとしていたと思うのだけど、Sarah Frankcom演出の今回はミニマルであることによって、ここは劇場ではない、という感覚を呼び起こしていた。舞台監督の立ち振る舞い(ナレーター的ではなく、舞台進行を実際的に取り仕切る風である)に始まり、登場人物のラフな衣装、また前半ほぼ唯一の美術である長机と簡易椅子を観客席としても活用したり、円形で高さのない舞台など、それらはまるで「稽古場」の雰囲気を作り上げていた。手元に戯曲がないのだけれど、私のわかる範囲では台詞の改変はほぼなく、しかしキャストはみなマンチェスター訛りで話していた。(正確にはキャスト自身の地元の方言とのこと。)

 ここが「稽古場」であると示すことはすなわち、この作品の舞台は今現在のマンチェスターであると示されているに他ならない。エミリー、ジョージを初めとするグローバーズ・コーナーズの人々の些細で平凡な出来事は、このマンチェスターの街の至る所にあるのだろうと思わせる。同時に、稽古場という場の設定は『わが町』という作品があくまでもフィクションであることも突き付ける。もしも舞台監督が、作品の進行を中断したら、この場所はただの何もない空間になってしまう、その事実がちょっと辛く思えるような感覚である。(実際、二幕の結婚式風景のすぐ後に入るインターバルのアナウンスは、決してネガティブなトーンではなかったけれど、そのように機能していた。)とはいえ、これがお芝居かどうか、という点は実はそれほどくっきりとオンオフが分かれているわけではなくて、むしろ稽古風景を思わせる演出は、登場人物/キャストが演劇と日常のグラデーションの中にいるような感覚を抱かせる。

 ただ、死者の姿だけは稽古場の延長として、あるいは日常風景としては描けない。三幕だけは、舞台監督をのぞき、徹底して「演劇的に」演出が施される。エミリーが振り返る誕生日の風景は、雪に覆われたひまわりで飾られるテーブルを両親と囲むものである。死者の振り返る日常は日常ではなく特別な出来事なのだという、二幕までとの間に明確な線を引く舞台美術は、戯曲の持つメッセージを際立たせる。

 墓前に無言で打ちひしがれるジョージの姿は、生きている人々にとっても、死んだ人と過ごした日々はある時特別なものになるのだと訴えるようだった。パンフレットに少し言及はあったものの、プロダクションとしては強調していなかったが、しかしこの作品を観て今年マンチェスターで起こった事件を思い起こさない観客はおそらくいないだろう。(公演時期的に、事件の前からすでにプログラムに入っていた演目のはずなので、演出プランの変更はあり得ても、作品選択自体は意図的ではないと思う。)テロで死ぬことと、事故や病気で死ぬことは、違う。それでも 'Don't look back in anger' を歌いあげた街である。死んだ理由を追求するだけではなく、愛しい人の死後、残された人々の時間がどう流れていくのか、少しだけ先のことを改めて見据えるための作品だったように思う。

 ところで、今回の上演はRelaxed Performanceと呼ばれるもので、主に精神障害や発達障害、その他何らかの疾患を抱えた人を対象としたバリアフリー対応の回だった。劇場ドアを常に開けておいたり、音響や照明のレベルを抑えたり、上演時間や休憩についてなるべく正確な時刻をアナウンスしたり、と興味深い試みがなされていた。未就学児もOKで、乳幼児連れの観客もいた。結果論だけれど、こうした要素は今回の作品にとってはとても良い影響をもたらしたと思う。個人的には、三幕でずっと客席の赤ん坊がぐずっていた(エミリーは出産のときに死んでしまう)ことが号泣もののハプニングだ。

 ところでその2としては、マンチェスター行き自体も感慨深かった。マンチェスター中心地のひとつ前の駅、ストックポートはスティーヴンスの出身地で、彼はこの土地を舞台とする作品をいくつか書いている。代表作である On the Shore of the Wide World もその一つで、あの芝居の登場人物が暮らしていたのかぁ、と車窓から駅をながめてしんみりしていた。(スティーヴンスが暮らしていた、という感動は実はあまりなくて、妙なもんである。)今後もマンチェスターへ来ることは何度もあるだろうし、機会があれば一度、この駅にも降りてみたいと思っている。

うつかも

 かも?と言っている時点ではまだ元気なので、大丈夫。本当にやばくなったらブログどころではない。

 到着から三週間の疲れが着実にたまっている自覚はあったものの、ようやくスーパーバイザーとの面談も終えて本格始動というタイミング、周囲の顔と名前もだいたい一致してくるという時期、あまり休みたくないなぁと思っていたのが正直なところ。とはいえ根気詰めてがりがり机に向かってるというわけではなく、夜にはイギリスのドラマやコメディを見たり、好きな本を読んだりしていたし、それが息抜きや休息だと思っていた、し、休息とはそういうもんだろうと思う。

 今朝、アラームの時間を過ぎての寝坊。起きたはいいものの、何をするにもえらくしんどい。ぼーっとしてばかりもいられぬと、遅い朝食をとり、GPの予約やドコモの契約やらで数件電話をし、また掃除機でもかけてみたりするものの、昨日までと明らかにテンションが違う。外出の準備が鈍い。

 昨日は人文系院生のセミナーが二つ連続であり(早い時間の方は教員主導、遅い方は学生主導)夕方は学期初めということで学内バーで飲みに。先輩も同期もみないい人たちで、パブ飲み社交のハードルが高い現状ながら、それなりに会話を楽しむことはできたように思う。先週ゼミ同期であるトーマス兄さん(年齢は知らんがそういう雰囲気なのだ)に、だいたいイギリス人はパブでは天気か政治の話しかしないから困ったらそういう話題を振ればいいし真剣に聞くこともないよ、という優しいけどシニカルなアドバイスを受けたのだが、ほんとにみんなテリーザ・メイのスピーチのニュース映像をネタにして盛り上がってたので、兄さんの言うことは信用しようと思った。

(ついでに、トーマス兄さんはこのアドバイスの後、私の研究テーマの詳細を丁寧に聞いてくれた。「会話 'chat'」に混ざるのが苦手だと話した私への気遣いなのだろうが、それはとても印象に残っている。)

 ロンドン出身の人とオリンピック大変だね(彼は会期中エジンバラに逃げたらしい)という話をしたり、日本へ旅行してみたいなという話を振られたり、ベイビーメタルって知ってる?と聞かれたり、バー内で流れている(たぶんあまりメジャーではない)80年代のUKロックのMVを見て笑ったり、そういう風にその場にいられたことは、この三週間のうちのささやかだが大きな変化だ。今までで一番楽しかった、と言えるし、でもやっぱり今までで一番疲れていたように思う。

 留学経験があるということの慣れもあり、到着直後の目の前が真っ暗という状況をむかえずにすんだ分(幸い寮関係の災難には仲間がいた)、生活すべてにおいて楽しい部分だけ、あるいは何か「生産的な」苦労だけを見ていたような気がする。ずーっと気を張っている状態でもある。その糸が切れるとき、つまり鬱がやってくる時が恐ろしく、私は大丈夫だと常に言い聞かせている。

 10日前の私グッジョブ、だったのは大学のカウンセリングセンターへの登録と予約を済ませており、折よく今日が初回のセッションとなったからだ。もともと、自分のコンディションを伝えること、緊急時に利用できる段取りを整えておくことが目的だったが、結局やはりこのブログに書いてきたこと、出発前や日本での院生生活、それから精神科に通院しだしてからのことを話すことになった。

 私が双極性障害という病気で一番苦労するのは、負荷がかかっているときほど、どういう感情や状態、行動が病気のために生じていて、何がそうではないのかの区別がつかなくなることだ。すごく興奮している反面、不安だらけで些細な失敗にひどく落ち込む、という今の状態は、バイポーラーの二極のように思えた。カウンセラーは一言、それはいたって「ノーマル」な状態で、留学生だけでなく新入生がみな抱えている気持ちだと言った。少し泣いた。

 とはいえ、健康な人なら自然に治るケガが膿む、のが辛いところで、油断は禁物だと改めて思う。でも、鬱の波に構えすぎるのも、それはそれでひどくプレッシャーになるようだから、波が来たら抗うことなく流されよう、くらいの気持ちもたぶん必要なのだろう。

 そんなわけで、セッション後はまっすぐ寮へ戻り、ジーンズのまま寝て起きたら夜だった。過眠傾向も少し怖いけど、寝れるときは寝た方がいいのかもしれない。午後休の日、ということにする。