How to Win Against History by Seiriol Davies at Young Vic Theatre

観劇日:2017年12月20日14時45分

 

 19世紀末に生きた「変わり者」の貴族ヘンリー・パジェットの生涯を語るコメディミュージカル。男性三人(くっそ歌上手い)のパフォーマンスで、低予算的ぽく、そのわりに派手派手しい衣装や小道具、美術はわりとキャンプな感じ。

 そもそも、パジェット卿はドラァグ的なところのあった人物らしく、普段から女装して暮らし、見合い結婚するものの妻との関係は上手くいかず離縁。さらには無類のエンターテイメント好きで敷地内の教会を劇場に改装し、自作の上演に財産をぶっこむも、芸術家としても興行主としても才能はなかったようで全くの赤字という始末。パジェットは29歳で病死してしまうのだけれど、その死後、親類によって彼に関するあらゆる記録は燃やされたとされる。歴史的資料が無くなってしまった実在の人物の生涯を、舞台で描き出すにはどうすればよいのか、そして歴史から抹消されてしまった人物がその存在を今に取り戻すためには、つまり「歴史に勝つ」にはどうすれば良いのか、チープで華々しいステージの背景テーマが興味深い。

 当然ながら、パジェットに関する資料がとても限られているため、知りえる史実を時系列に並べ、その出来事を歌にしてしまうという方法で彼の存在を作り上げていく。構成だけで言えば事実の羅列であり、その意味では今作はあまり「ドラマチック」ではない。では、このタイトルの意味は何だろうと思っていたら、エンディングに歌われる'I sort of won'という、観客の発想の転換を促すシニカルで切ない曲に、それが込められていた。

 「私の存在が歴史から燃え去ったことを『残念だ』とあなたが本当に考えるのなら、私はある意味で歴史に勝ったのだ」

 この逆説的なフレーズを成立させるために、史実を補完するあるいはフィクショナルに描き直すということに徹底して禁欲的で、抑制していた。物語の単調さと歌の華やかさ

の妙なギャップが、ラストシーンで観客を鋭く刺激する。この転換は痛快で、同時にパジェットの生涯を改めて顧みる思いを残した終幕は、タイトルに適うものだった。

 物足りなさを言うとすれば、シークエンスのつながりは結構ぶつ切り感があり、もうちょっとスムースにならんかったかなぁと。とはいえ客席は満席、客層も老若男女を問わず、親子連れも多くて、こういう作品が広く観られるのはいいなぁと思った。

 

Young Marx by Richard Bean and Clive Coleman, NT live

観劇日:12月7日19時

演出:Nicholas Hytner

上演劇場:Bridge Theatre

 

 この秋完成したBridge Theatre*1のこけら落とし公演で、製作チームはOne Man Two Guvnors の面々。『資本論』上梓の前、ロンドンで極貧亡命生活を送る若きカール・マルクスが主人公。

 良く言えば天才の破天荒は悪く言えば人間のクズ、なわけで、とんでもないエピソードの数々に笑いつつ、マルクスの妻ジェニーにはただただ同情する二時間。(エンゲルスはなんだかんだで幸せそうだからいいのではないか。僕らは作家とプロデューサーだ、とマルクスに言われるシーンがあったけど、あれは昭和の漫画家と編集者の関係だと思う。)方々から返す当てのない借金をし、それでも衣食に困るほどの貧乏生活で、そのくせ嗜好品は止めず、あらゆる理由で常に警察に追われている。だいたい「若き」と言っても妻も子供もおり、資本主義が悪いのは良く分かったがその破壊的な金銭感覚はどうにかならんものか、いや突き抜けたザル勘定だからこそ世紀を変える経済思想を生んだのかもしれない、くらいに思わないと付き合いきれないタイプ。

 しかもマルクスのクズっぷりは金銭問題にとどまらず、使用人のニムと不倫関係の末に子供までできちゃって、慌てて彼女をエンゲルスと偽装結婚させようとするあたりは、てめぇこれコメディだから(あとエンゲルスの苦労人度とニムのかっこよさで)ぎり許されるやつだぞ、と心の中で叫んだ。それでも一応一線保っているのはどちらかというと脚本よりローリー・キニアの力のように思う。『三文オペラ』で老若男女が惚れ込んだキニアマックに続き、今回のキニアマルクスも大概人たらし。

 とはいえ、マルクスが愛すべき人間であるという描写は一貫してはいて、音楽好きでユーモラスな性格や、家族や友人への(ちょいちょいゆがんだ)愛情深さ、鋭い社会批評を通じて見える天才的な頭脳は、確かに魅力的な人物像を作り上げている。もともと、歴史的偉人を「人間的に」描き出すというのが今作のコンセプトで、金銭面にしても愛情面にしても人間関係にしても、とかく彼は矛盾していたということが重要な強調点だろう。人格者でお金持ちで筋の通った天才なんてスーパーマン(あれ、これエンゲルスでは)はいないんだよ、というメッセージに、マルクスを題材として取り上げる意気は中々チャレンジング。

  さて、作中で描かれる多数のトラブルはほぼ実話だそうで、見終わって、なかなか辛いなと思うのは、特に家庭内の事柄に関してはどう考えてもマルクスの、あるいは、後世彼の考えを引き継いでいった人々の思想に反する、というところ(これは創作だと思うけれど、マルクスが自分は残虐な仕打ちを受けている('brutalised')と愚痴を言って、マンチェスターの最貧困層の人々の生活を知るエンゲルスを怒らせる場面がある。まだ彼は思想家として未熟であるという脚本上のフォローは、そういう形でちゃんと入ってはいる)。私は芸術作品と人格は別物と考えてますが、さて思想と人格は別か?となると、ちょっと即答できない。でも、歴史的偉人を「聖人」としてではなく描き出す上でこのコンフリクトは避けようがなく、どこまで本当だったのかもはや知るすべはないにせよ、史実をどのように読みかえるのだろう、という点は興味深かった。

 個人的に一番面白かったのはニム、ジェニー、マルクスの三角関係で、演出、脚本ともに上手い切り抜け方だったと思う。ニムとジェニーの間に、レズビアン的関係が読みとれるかどうかの際どいラインでシスターフッドを築いていて、二人の間にマルクスに関わる負の感情が生じないようにしている。個人的にはニム→ジェニーに関してははっきり恋愛感情があるという設定でもおかしくない展開だと思ったけれど、マルクスの「クズ度」を和らげるために、歴史的な人物や出来事を(創作とはいえ)クィアに読んでいいのかは悩ましいところ。歴史的大著を生み出したけど人間的にはクズだった、という点に徹した誠実さは、たとえドラマの魅力を減じたとしても、買いたいと思う。

 来年のNTlive日本上映が確定したようでなによりです。

 

*1:劇場設立の中心人物は、今回の演出のニコラス・ハイトナーと元ナショナルシアタープロデューサーのニック・スター。ハイトナーも2015年までナショナルシアターの芸術監督で、つまり彼らは数年前までイングランド最大の公立劇場で辣腕ふるっていたわけで、その二人がなぜ「商業」劇場をウェストエンドの中心地をあえて外した場所(かつNTのご近所)に建てたのか、という芸術、興行上の理念はすごく面白いです。NTlive冒頭のハイトナーのインタビューでも少し語られてました。今回映画館で見ちゃって劇場にはまだ行ったことないので、近々ホワイエくらいは覗きたいです。

Real Magic by Forced Entertainment at mac

観劇日:2017年11月24日20時開演

(かなり走り書きなので後で修正するかも)

 観終わってすぐ、これはジュディス・バトラーのパフォーマティヴィティをポジティブな方向で解釈して舞台化したらこうなった、というものではないかと思いついて腑に落ちたので、なんかあまりこれ以上書かなくてもいいかなという気がするんですが、これだけだと数年後にこれ読み返して、何を観てん自分…てなるので、記録的に書いておきます。

 MCの司会のもと、出題者が考えている言葉(正解は手にした段ボールにでっかく書いてある)を目隠しした解答者(答えられる言葉は常に同じ)が当てる、三回間違えたら3者それぞれ役割交代というクイズ番組風のシークエンスをひたすら反復する。誰が解答者になろうと間違え続けるし毎回失敗する、というか正解しないこと自体がルールである。

 バラエティ番組の諸要素をいろいろに引用していて、それはパフォーマーの衣装であったり、カンドラフターやSEであったり、チカチカした照明であったり、MCのノリや解答者らのムード(生き別れた家族と再会っぽいやつが一番笑った)であったり、そうした部分で反復のバリエーションを生んでいく。

 けれど、重要なのはこのシークエンスの反復にどれほどパフォーマンスのボキャブラリーが豊かに用いられているかではなく、反復を通じて、三回間違えたらアウト、のルールの意味がずれていくことである。「クイズ番組」であれば、間違えたら失敗です残念でした、となるわけだけれど、途中から目隠しをせず解答席に座ったり、出題者が答えの書いたボードを持っていない、という事態が展開していく。答え見えてんじゃん、答えわかんないじゃん、という観客が当然のように受け取るばかばかしさは、逆に言えば、答えがわかってもわからなくても「間違えなければならない」という形でルールの縛りを見せつける。

 ルールの作用が変わる展開のキーになるのは三人のうちの唯一の女性パフォーマーであるクレアさんで、たぶん女性であるということはかなり意味を持っていると個人的には思う。三分の一くらいのところで、彼女が解答者になるターンがまわってきて、露骨に答えの書いたボードが示されるのだけれど、彼女は三度間違える。いくら答えが明らかで、解答がわかっていても、間違えるのがこの場の「お約束」なんですよね、というMCらの期待に抗えないのだ。その「知ってるけど知らないふりをしなきゃ」はしばしば女性が(あるいは立場の弱い人が)感じるあの居心地の悪さじゃないか、と思う。

 次に変化が起こるのは中盤で、これもやはりクレアさんが解答者役。反復のシークエンスの中では間違いの解答も常に同じである。(electricity, hole, money。ちなみに正解のボードに書かれている言葉も3パターンあり、caravan, algebra, sausage*1。)この時、MCと出題者の二人が'hole'や'money'の慣用表現を言葉遊びにして、文字通りの意味合いから比喩的な表現までさまざまに意味を取ろうとする。そしてMCが、どのholeの意味で答えました?と返すのだ。誤答にも解釈の余地があると示されたことで、では正解も間違いも解釈次第で、結局のところ「失敗する」という結果自体にしかルールの意味はないのではないかと気づかされる。

 正解だろうと間違いだろうと何を答えても失敗する、というのは完全にディストピアな世界観であり、後半のシークエンスの反復のサイクルはほぼルーティン化して加速度的に早くなる。しかし同時に明らかにされていくのは、このルールの「失敗しても役割が変わるだけで決定的に罰せられることはない」という側面である。

 最後のシークエンス、これもやはり(というか私は少し期待をしていた)クレアさんが解答者だった。MCが、出題者の考えている言葉を当ててくださいと、何度聞いたかわからないクイズのルールを説明する。出題者はボードを手に笑顔で立っている。解答者はもはや目隠しはしていない。正解はこれだよ、とボードをあからさまに解答者の方へ向ける出題者(これは前半部のクレアさんのターンの反復にも見える)、焦らずゆっくり考えてと繰り返すMCは、むしろ誤答が出ることを恐れているかのようだ。「正解」を言ってくれ、という二人の期待に反し、解答者は余裕の笑みでクイズに間違える。そもそもクイズの解答の成否は問題ではなく、もはやルールは意味をなさなくなり、それでもなお守り続けるMC達の方が滑稽だ。ルールが無意味になった以上、ではこの次はどうなるのかという期待を持たせての幕。もちろんこのルールは、この社会における規範の比喩である。

 すごく悲観的に見れば、やっぱりルール自体はなくなってないのだし、ルールの枠内で好き勝手やるってことに変わりはないんじゃないの、とも思うし、そうとればかなり希望のない作品だと思うけれど、個人的には、楽観的にすぎるかもしれないが、とても明るい作品だと思う。反復することでずれて変わっていくこと(それは必ずしも「良い」変化ではないかもしれないけど)の可能性をきちんとみせてくれた。

 Forced Entertainmentは舞台では数回、あと映像でわりと見ているのですが、どれを見ても出演者の人たちが隙なく上手くて、でもリラックスしたユーモアがあって、その様子だけで幸せになるんですが、あれはいったいどういう訓練をすれば達成できるのは本当に謎。今作のフライヤーのコピーは'Beckett Meets Trash TV'で、例えばベケットをやったりはしないんだろうか、とぼんやり思うのですが、まぁやらないだろうなぁ…。

 

*1:脚注にして書きますが、ソーセージに関してはすっげぇベタな下ネタをかます場面があり(想像してください)わぁ30年選手のベテランもこんなのやるんだとちょっと感動しました。無理やり意味をくみ取るとすれば、その次のターンでのほぼ下着姿の女性パフォーマーのポージングが妙にエロく見えるという視点の切り替えでしょうか。そこまで深く考えているのかわかりませんが。

脚注に追記:これ、正解の単語も比喩的に取れるよ=解釈次第だよ、ということかもしれません。

Lefty Tightly Righty Loosey by Fin Taylor at Soho theatre

観劇日:11月20日21時15分*1

 

 今週、ソーホーシアターでめぼしい演目は実は他にも二つあって、一つはUrsula Martinezら女性パフォーマー三人がお尻を向けてるポスターがインパクトあるWild Bore、もう一つはヴァギナモノローグのオマージュと思しきThe Butch Monologues。おそらくフェミ的安パイだろう上記二作に少し未練を残しつつ、思い切って賭けに出たのがこのフィン・テイラーさんのスタンダップだった。*2 *3

 今年のエジンバラフリンジが初演で、すでにそのレビューもいろいろ出ているのだけど、今作のアイデアを知った瞬間、これたぶん観とくべきやつや…の勘が働く。そのアイデアこそ「ぼく、左翼でいるの止めます」という冒頭の(文字通りの)パンチラインである。

 終わりの見えないポリティカルコレクトネス、際限なく増えるアイデンティティポリティクス、社会に特に影響を及ぼさない反資本主義的営為の「矛盾」をたたみかけ、結局思想というものはこの多文化社会を変えることはなくて、それを覆い隠すユートピア的ヴィジョンなんだ、と皮肉で締めてくる。

 もちろん、シニシズムに陥ってそれきりだったら、拗らせたノンポリとか確信犯的右派とかと変わらないわけで、中盤近くまで結構警戒しながら聞いていた。だけど、シスでストレートの男であることの「特権」って「罪」なのか?、と語る姿勢にはジョークと思えぬ真摯さがあって、もう少し見ていようと思った後半から、本当に落っこちるんではないかというレベルの崖っぷちを全力疾走するエピソードをぶちこんできて、政治思想を「持たない」とはこういうことを意味するのかと、口元が引きつる。あぁあなたの態度はただの拗らせやシニシズムではない、もっと深いところから考えこんで捻じれてブチ切れたのですね、と降参してしまった。(どういうネタだったかは、さすがに私も自分のブログに書くのははばかられるので、書きません。)

 わりと個人的な経験にがっつり刺さってしまってしまい、時に笑いを超えて、うーわーそれめっちゃわかる泣笑怒、というゾーンに入り、なんかあまりコメディを見た気がしないぐらいだった。自他ともに認める「リベラル左派」の人に足を踏まれた経験は一度や二度ではないし、私自身がそういう振る舞いをしてしまって途方に暮れることもあった。矛盾を突き詰めていくほど矛盾して、左派止めます宣言できたらどんなにいいだろうかと思ったことはある。でも当然ながら、私がそれをやっても拗らせた文化人たち以下にしかならないのも容易に想像がつくし、テイラーさんのように腹をくくれないのなら(もちろんそれが理想的とも思わないけれど)ただただぐるぐると悩むしかない。

 ひとつ例を挙げると、テイラーさんが黒人の友人と飲みに行ったとき、お店でブルースの演奏をしていたミュージシャンがみな白人で、友人が「これって文化収奪だよね」と言ったというエピソード。この種のPCの指摘に対する応答を私はずっと考えていて、いまだに答えはない。(エピソード中に語られるテイラーさんの答えにも、私は完全には同意できない。)文化芸術研究の仕事とはそういう問題を延々と考えることなのだ、とたえず確認し直すことが私にとっての政治的態度の在り方だし、テイラーさんが「左派止めて」もなお政治に関して全然楽になってないのも(そしてこれをコメディとしてしまうことも)彼の政治への向き合い方なのだと思う。

 ショウの途中で、テイラーさんが年下だとわかりすごい驚いた(1990年生まれかな)。30歳は超えてるだろうという誤解は、むすっとした髭面の宣材写真だけのせいではないと思う。この人がこの先何を考えていくんだろうと、とても気になっている。

*1:「月曜の夜にわざわざ!」といじられました。

*2:コメディ関係の情報はイナムラさんにお世話になっております。リンク:Go Johnny Go Go Go Part II: Fin Taylor

*3:あと、Wild Boreはこの評判だとバーミンガムツアーありそうだな、という気がしている。テイラーさんもあるかもだけど、こっちのコメディアンの人のツアー形式がまだよくわかってない。

Minefield by Lora Airias at Royal Court Theatre (downstairs)

観劇日:2017年11月11日19時半

 

 アルゼンチンの作家Lora Ariasが手掛けた、フォークランド戦争に従軍していたアルゼンチン、イギリス両国の退役軍人6名によるパフォーマンス作品。作品の名義はAriasになっているけど、スクリプトには、出演する六人の物語に基づく、とあるので、ドキュメンタリー演劇と観て良いのかなと思う。

 三人の元英国兵(うち一人はグルカ兵*1)と三人の元アルゼンチン兵が、軍への入隊から開戦、戦時中、そして戦後から現在に至るまでのそれぞれの経験を語っていく。並行して、今作のオーディションや稽古場での出来事を通じ、自身の(多くの場合トラウマ的な)経験に改めて向き合う過程も語られる。イギリスキャストは英語で、アルゼンチンキャストはスペイン語で語り、字幕には両言語(英語の語りではスペイン語、またはその逆)が表示される。

 もちろん、彼らの経験それ自体が非常に重くて(良いか悪いかはともかく)退屈することのないストーリーばかりなのだけれど、見せ方も工夫されている。例えば、戦時中までははっきりとイギリス、アルゼンチンキャストの間に境界(主には舞台上の待機スペースで)を引き、両者の語りが混ざらないよう注意深く構成されているが、戦後、特にPTSDに関わる語りなどは逆に両者の語りがオーバーラップするような仕掛けが施されている。アルゼンチンキャストの一人がビートルズのトリビュートバンドのドラマーだった、というところから楽曲の演奏シーンも多く、ビートルズが両者の文化的な共通体験であるのも印象深かった。(このドラマーの人は、戦艦ベルグラノの生存者でその経験を語るのだけど、その時のドラムのパフォーマンスが今作一番良いシーンだったと個人的には思う。)

 35年という時間が色んな意味で「絶妙」だったように思えた。戦時中20代だった彼らが60歳に差し掛かろうかという頃、負の感情が消えることは決してないのだけれど、軍人として生きた時間よりも各々のセカンドキャリアの人生の方が長くなっていて、戦争の記憶は徐々に過去のものになりつつもある。作品全体でも、戦時中の経験自体の語りよりも、戦後の出来事やトラウマとの葛藤、あるいは稽古期間を通じて改めて記憶や戦争体験に向き合うことについての語りの方が比重が大きかった。敵対していた者同士(そして現実に当時戦場で出会っていたかもしれない者同士)互いにすべて理解しあえることはないのかもしれないけれど、怒りや憎しみ以外の感情が舞台の上にあればこの作品は成功だと言えるのだろうし、実際そういった感情の動きは生まれていたと思う。

 私の観劇日はちょうど Remembrance dayで、その日だけだったのかわからないけど、イギリスキャストでポピーを衣装に着けている人がいた。私はこのポピーや戦没者追悼日にイギリスの人が思うことをまだよくわからない、全然(それはきっと靖国参拝とも終戦記念日とも自衛隊追悼式とも違うのだろう)。劇場に行く前、買い物をしたお店の店員さんが、前に並んでいたお客さんに「旧硬貨(先月1ポンド硬貨が切り替わりました)はもう買い物に使えないんですよ、ポピーのチャリティとかで使ってください」と言っていて、そういうものかぁとぼんやり思ったことと、あの出演者のポピーは妙に結びついている。

 あとこれLIFTのプログラムの一部で、欧州ツアーも控えている(もう終わった?)ようですが、こういう当事者出演というか自らが語るパフォーマンス系ってバービカンとかBACが得意そうだなという印象があり、ロイヤル・コートでの上演は作品傾向的にちょっと異色な気もします、が、どうなんでしょう。

 

追記:この公演は見切れの立見席で観ているので、上手半分くらいがほぼ見えないという状態だったので、演出的に大事なところを見落としている可能性があります。台詞は問題なく聞こえて、字幕も見えました。(Royal Court Downstairsは(演目にもよるようですが)当日券のみの10ペンスの立ち見席があります。豪快に見切れてたけど、10ペンスは強い。)

 

 

 

*1:この人がネパールの歌を歌うシーン(ここは字幕なし)はアジア系の表象としては微妙な気がしたのですが、歴史の知識に私は全く弱いのでものすごく的を外した感想かもしれないです。ただ、アジア系の人が出た時に自国の歌を歌うとか踊りを踊るというのはもうパターンなので、英語しゃべれる人なんだから、英語-スペイン語の領域に入っていてもいいのではとは思った。入りたくない、という向きがありえるのもわかりつつ。

Time Critical by Stan's Cafe at mac

観劇日:11月7日20時

 

 バーミンガムを拠点とするデヴァイジングシアターのカンパニー、Stan's Cafe*1。名前はちょくちょく聞くものの観る機会に恵まれなかった。実際 British Theatre Companies (bloomsbury, 2015) の紹介項でも、批評家の評価は高いけどあんまり大手紙に言及されてもいない、というような解説がされていたりするので、売れる一線を微妙に外しているのだろうか…と余計なお世話なことを考えつつ劇場へ。

 今作は、昨年のカンパニー結成25周年記念に作られた作品の再演。パフォーマーは二人、チェス盤とチェスクロックを挟んで向かい合い、一人は1991年から2017年までの世界史を、もう一人は同じ年代の個人史*2を語る。持ち時間は26分間*3

 方やソ連崩壊からユーゴスラビア紛争、ニュー・レイバーから911、ロンドン同時テロと主に欧米の歴史を語りまくり、方や大学卒業後カンパニーメンバーとの出会いから、作品製作、ツアー公演の思い出、劇団内外の人間関係のごたつきを語りまくる。エピソードの区切り良くクロックを止めたり、相手の語り(なぜかO・J・シンプソンの法廷での物まねをやりたがるとか)のうざさに勝手にクロックを止めたり、特に語ることがないので相手にターンを渡したりと、ゲームかスポーツかというようにスピーディに進行していく。また、おそらくカンパニーの結成記念作品だからだろう、個人史パートの節目にいくつかの過去作品の一部のパフォーマンスがある。2017年までたどり着けばゴールだが、私の観た回では2016年でタイムアップ。最後はものすっごい早口だった。

 大文字の歴史と個人史の対比だよねと言えばまぁそれまでではあるのだけど、当然ながら前者は後者を気にも留めないだろうが、個々人は「あの時何があったか」をよく覚えている。ツアーで訪れた地域と歴史的な事件とをうまくかみ合わせるように構成されていて、その駆け引きめいた両者のやりとりは結構スリリングだ。(チェコ、スロバキアの連邦解消当時に周辺諸国へツアーに行ったとき、旧東ドイツのボーダーで「私たち、ヨーロッパの『ニグロ』ですから」と言われて凍った、というエピソードが今回一番記憶に残っている…。)

 ただ、アイデアは好きなんだけど、いまいち乗れないなぁというのが観終わっての感想で、たぶんその感覚は、評価は悪くないのに大ヒットとはいかない、というところと重なってるような気がする。例えばForced Entertainment なり Complicite なりが実験性や革新性、ビジュアルや音響、言葉の美しさに注力している部分を、彼らはおそらくエンターテイメント性にその力を注いでいる。もちろん、Forced Entartaiment らがエンタメを重視してないわけでも、Stan's Cafeが実験性や美学的側面に全く欠けているわけでもない。RPGでいうところの「アビリティポイント」をどこに振る?というやつで、攻撃力にポイント入れ過ぎて、素早さとかが足りなくなるみたいな、ある種のバランス感覚のようなものだと思う。(あたりまえだが、攻撃力一点突破も持ち味としてはありである。)

 あとこれは再演最初の公演(かつ世界史を語る方のパフォーマーが変更になっている)のせいか、単純にミスが多かった。26分間というルール設定で、クロックを押すタイミングが重要なのに、ターンの切り替えがうまくいってないところがちょいちょい。(段取りこんがらがって即興っぽくなるのは、ゲーム的なものとして楽しんだけれど。)でも、次回作も観たいです。あと、バーミンガムといえば?で答えられるものが一つ増えたし*4

 

追記:ふと思い出したので。二人のパフォーマー、今回は世界史を語る方が若い女性(91年時点で3歳という台詞があったのでたぶん30そこそこ)、個人史を語る劇団創立メンバーは男性(91年に修士修了という台詞があったので若く見積もっても40台半ばか後半)。で、90年代後半の携帯電話の普及の話で、両者が同じ時期に初めて自分の携帯を持ったということがわかり、男性の方が二人の年齢差に、うわぁ、という反応をするというシーンがあったのでした。こういうあたりも、社会の変化と個人の経験が絡まるポイントだなぁと、面白かった。

 

*1:自分で間違えたので書いておきます。カンパニー名の発音は 'Stan's CAFF' 。労働者が集うイギリス式「カフェ」がモチーフで、'café' のような繊細さや見栄はありませんよ、とのこと。こちらもBritish Theatre Company参照。

*2:正確にはパフォーマー(初期メンバー)の視点から語られる劇団史です。

*3:これ、切り悪いなと思ったら、初演時は25分間でした。たぶん、再演で1年分語ることが増えたので、1分伸ばしたんだと思う。

*4:留学先が決まってもなお、バーミンガム名物的なものを何一つ知らず、マンチェスターならサッカーもロックバンドもいっぱいあるじゃんいいじゃん、と思っていました、すみません。

Bluebird by Simon Stephens at Katzpace

観劇日:10月29日19時半

演出:Rob Ellis

 

 全然知らない座組ながら、スティーヴンス作品だし観とかねば、という気分でちょっと無理して観劇を決めたのだけど、正直そこまで頑張っていかなくてもよかったかという感じではあった。全く若手のプロダクションで、客席も友人とか身内の人が多いかなぁという印象。観れないほど下手ではないけど、単純に経験不足の物足りなさで、うーん…という出来。

 とはいえ収穫もあって、一つはKatzpaceという初めてのヴェニューに行けたこと。バラ・マーケットのすぐそばのドイツ風レストランの地下に、ブラックボックス型のスペース。客席は100人にも満たないだろうか。ゾーン1エリアでこの規模のヴェニューがあるとは知らなかったので、ちょっとびっくり。まだ新しいのか、私も今回初めて名前を聞いたけれど、若手や小さいカンパニーの足掛かりになる場所ならいいなぁと思う。(でもハコ借りるのいくらかなぁ…てのは気になった。)

 もう一つは、Bluebirdの上演は初めて観たのだけど、改めて良い戯曲だなぁと再認識できたこと。スティーヴンスのデビュー作で、しかしながら本人がエッセイでネタにしているくらい、物語や構成がコーナー・マクファーソンのThe Weirともろ被りな上(各登場人物のパーソナルな語りが続き、クライマックスは主人公の娘の死についての話。Bluebirdはタクシー車内、The Weirはアイルランドのパブが舞台)、初演も1年しか違わず、どちらもロイヤル・コートが初演劇場。そして出来としてはThe Weirの方がやっぱり優れている。

 ただ、The Weirがかなり役者を選ぶ作品であるのに対し、Bluebirdってわりと誰がやっても面白いんじゃないの、という印象を持った。戯曲に忠実にやればそれで及第点には達するというか。タクシーという場の設定や、クライマックスの主人公と元妻の再会のあたりは、「語り」以外の要素で作品をサポートできるようになっていて、いい仕掛けだよなと思った。(The Weirはクライマックス含め、登場人物のモノローグが4~5人分ひたすら続くという構成なのでデリバリーの上手い人でないと厳しい、けど上手くいくと号泣もの。)あと、プロップ少なくても出来る形にしてあるのも若手にやさしい。(これはおそらく90年代当時のNew Writing若手作家への技術的要請だろうと思うけど。)

 観た後の感想がこれじゃ、プロダクションの人たちにはなんとなく申し訳ないのだけど、個人的には色々発見があって、交通費無駄にはならなかったですよと。