Everybody's Talking About Jamie by Tom Macrae and Dan Gillespie Sells at Apollo Theatre

観劇日:2017年12月27日14時半開演

 

 2017年2月にシェフィールドはCrucibl Theatre製作で発表されたオリジナルミュージカルで、初演の高い評判を受けてウェストエンドへトランスファーとなりました。12月から翌春までのロングランが決定しています。(もっと延びたらいいなー。)

 中学校卒業を控えた16歳のジェイミー*1は、将来ドラァグクイーンのパフォーマーになることを夢見ている。学校の進路指導でこそ言い出せないものの、母親や親友のプリティには夢を応援してもらっているような、理想と現実のはざまにいる思春期の少年。誕生日に母親から真っ赤なピンヒールを贈られたことに背中を押され、町のブティックへドレスを見に行くと、その店のオーナー、ヒューゴは往年のドラァグクイーン!とんとん拍子にクラブでのステージデビューの話が決まっていく。

 クラブでのパフォーマンスにはクラスメイトがみな観に来て、ショーの翌日は学校がその話題で持ち切り。ジェイミーも自信をつけて、卒業前のプロムでのステージ構想を抱くようになる。ところがその計画が教員に知られるや否や、学校側は「プロムは生徒全員のためのパーティの場であって、ジェイミー一人が『乗っ取る』ようなことをするのは認められない」「プロムとはいえ、学校には『適切な』恰好で来るように」とくぎを刺す。同時に、別居中ながら陰で応援してくれていると思っていた父親が、以前からジェイミー達とは縁を切りたいと考えていたこと、母親はそれを知りながら父親は愛情深いと偽っていたことがわかり、ジェイミーは自分は「醜い」とその存在を責めてしまう。プリティの励ましや母親との和解を経て、パフォーマンスはしなくともありのままの自分でプロムに出ようと決意したジェイミーは、真っ白なワンピースで会場に赴く。

 これは実話がもとになっていて、モデルとなったジェイミーを取り上げたドキュメンタリーが数年前にBBCで作られている*2。というか、このドキュメンタリーがミュージカル製作の発端。実際には、クラスメイトの協力も厚くプロムでのパフォーマンスが叶ったそうなのだけど、ミュージカルでは落ち着いたエンディングで対照的。

 さて、物語の構成的に、次世代の『ビリー・エリオット』とまで評されている今作、個人的にはマイノリティの物語としてはビリーよりもずっとアップデートされてると思う。特徴的なのは差別の描き方。ジェイミーはオープンリーゲイで、クラスメイトとも(彼を変わり者と見るものの)楽しく学校生活を送り、家族は最大の理解者(これ、お母さんはレズビアンではないかという描写が、明示的ではないものの、結構あります)。唯一、攻撃的な侮辱を浴びせてくるディーンがいるが、ジェイミーは「華麗に」その言葉を受け流す。そしてディーンも近寄りがたい存在としてまたクラスから浮いてる存在でもある。

 ただ、マイクロアグレッシブな差別は常にジェイミーを取り巻いている(割と前半に歌われるThe Wall in My Head はこのあたりの問題も描いています)。プロムに関する学校の対応はもちろん、ジェイミーに時に好奇の目を向けるクラスメイト(「お調子者」な彼の姿をみんながスマホで撮る場面がいくつか出てくる)、ディーンの乱暴な物言いに乗ることはないけど反論もしない周囲。まともに応じるのは母親やプリティ、ヒューゴだけで、ジェイミーは無関心や「問題を起こすな」という空気に圧迫されている。*3

 ジェイミーの明るさは、こういう小さな積み重なる攻撃に対抗するためのものでもあるのだろう。ラストシーンを実話と変えているのは、彼がプロムの主役となって底抜けに明るいまま終わるのではなく、彼が明るくなれないときも、シャイで落ち着いた姿でも大丈夫な場所に学校や社会が変わっていけばいいね、という期待を込めたものだと思う。

 Work of Artという曲が、展開も含めすごく印象深い。ドラァグクイーンデビューを控え、学校のトイレでプリティにメイクを教わっていたところを教師に見つかり、プリティがとっさに「美術の授業のためで」と言い訳をする。「芸術」ならば堂々としなさいよ、と教師はジェイミーを顔も洗わせずトイレから引きずり出す。失敗したメイクのまま廊下を歩くジェイミーにすれ違う生徒たちスマホを向けるが、ジェイミーは臆することなく自分こそ「パーフェクトな芸術作品」だと歌い上げる。かっこよくて、切なくて、強くて、繊細で、色んな感情がこみ上げるシーンだった。

  舞台となるのもモデルのジェイミーが暮らしていたのもイングランド北部のシェフィールドという町である。ドキュメンタリーを見た友人によると、学校の人種構成は白人がマジョリティだったそうだが、作中のジェイミーのクラスメイトの人種は様々で、親友プリティはムスリムの女の子。こういう部分の変更とか工夫は、もはや思い切ってというものでもないのだろうけど、観ていると楽しくなる。

 

*1:イギリスの教育制度は結構ややこしいので、正確には義務教育修了年です。またジェイミーがどういう種類の学校に通っているのか明らかではないのですが、衣装に関する制服の指定は(一般に制服がある学校は私立校でレベルが高い)あくまで物語の展開に関わるもので、舞台となる学校の生徒が裕福で頭がいいことを必ずしも意味しない、と演出ノートにあります。

*2:現実のジェイミー君は今作の10倍ぐらい出たがりのようで、プロムの案が出てきた時点で、テレビ局各社に自らドキュメンタリー製作の売り込みをしたんだそうです。すげぇ。

*3:特にプロムの件を初め、学校や教師の対応は、私これめっちゃ知ってるやつやで…ってなりました。一見PCや平等に配慮してるっぽい排除ってほんとにきついですね…。

Oslo by J.T. Rogers at Harold Pinter Theatre

観劇日:2017年12月21日14時

演出:Bartlet Sher

 

 2016年ニューヨーク初演、2017年にトニー賞ベストプレイ賞を受賞している。UK公演は、今秋のナショナルシアターでの初演の後、ウェストエンドへトランスファー。

 イスラエル、パレスチナ間の自治協定である1993年のオスロ合意の舞台裏を描くドラマ。ノルウェー政府の外交官夫妻の独断に端を発する完全極秘の会議が、度重なる交渉を経てワシントンでの合意にいたるまでを、意外にもコミカルに描き出す。

 知人から先に感想を聞いていて「三谷幸喜みたいだった」というコメントに、え?オスロ合意でしょ、しかもこの状況下で*1、と思ったのだけれど、確かに三谷風。一つは、政治的に深刻なテーマをライトに描く手つきで、これは『笑いの大学』ぽい感じ。もう一つは、一官僚の提案が、イスラエル、パレスチナの政府関係者はもちろんのこと、ノルウェー、アメリカの高官や外相、ひいては各国を巻き込んでの一大事となっていくプロセス。当然ながら、はじめは両国とも交渉には態度が固く合意にほど遠く、しかし徐々に歩み寄り妥協点を見つけていく。全員がばらばらの方向を向いているところから大きな目的へ進み見事達成する感じは『ラヂオの時間』だなぁと思った。実際これほどスムーズに事が進んだとはもちろん思わないけれど(ラストシーンでは関係者の没年と、イスラエル、パレスチナ間で協定締結後に起こった衝突や紛争が時系列に語られる)歴史的な事件をドラマチックにかつエンターテイメントとしても仕立てあげたクオリティは目を見張るものがある。

 コメディタッチに出来た理由の一つは、主人公をノルウェーの、歴史的には無名の官僚にした点だろうと思う*2。完全な秘密会議のため、第三者であるノルウェー政府の関係者は会議の場には立ち入り禁止。彼らはあくまでも、会議のための場所と両者の連絡をセッティングする以上のことはできない。ノルウェーの官僚たちの、ある種のなにも出来なさが、実際の会議との距離をとる良い仕掛けになっていたと思う。

 逆に言えば、イスラエル、パレスチナ間の交渉の様子は想像に頼ることしかできないわけで、厳しい会議だったことは承知の上で、両政府の外交官によるハートウォーミングなやりとりが描かれたりもする。 リアルじゃないね、と言えばそれまでなのだけど、その後、事実上この協定が無になってしまう今の悲惨な状況を思い起こすと、せめてドラマの中くらい、協定締結の時くらい、多少なり希望があってもいいのかなと思う。

  人種表象どうするねんというのはまぁあるんですが(今作に限らず海外作品の翻訳上演に常につきまとう問題ですが)、全体的な雰囲気や物語の展開自体は、日本でもウェルメイド好きなお客さんに好まれるんじゃないかなとも思います。

 

 

*1:本作初演は去年なのだけど、ちょうどこの作品のウェストエンド公演時、トランプ政権がエルサレムをイスラエルの首都と認めるという声明を出してめちゃくちゃ混乱していたのです。

*2:今作の主人公・語り手となるMona、Terje夫妻は実在の人だそうで、歴史に詳しい人だとモデルと比べて楽しめるのかもしれません。私が聞いたことあるのはせいぜいホルスト外相くらいで、そしてそのホルストさんは、作中では会議のセッティングを事後に知らされてパニック(外相まで話が上がってきたのは交渉が始まってそこそこ経った後)という感じで描かれておりました。

The Jungle by Joe Murphy and Jor Robertson at Young Vic

観劇日:2017年12月20日19時半*1

演出:Stephen Daldry and Justin Martin

 

 これ、実はまだ考えがまとまってないので、ぼやっとした感想ではあるんですが、早めに書かないと内容自体を忘れるので、とりあえず書いています。

 英仏国境に当たるフランスのカレーの難民キャンプを舞台とした群像劇。劇作を手掛けたマーフィー&ロバートソンは学生時代からライティングコンビ。二人はモデルとなる難民キャンプに半年以上にわたり滞在し、現地でGood Chance Theatreという劇場を立ち上げ、現在も難民支援と彼らとの芸術作品の製作活動を続けているとのこと(BBCのインタビューによれば、今作の出演者に元難民の人もいたようです)。

 作品は、2015年から2016年にかけてのカレーの難民キャンプの人々の様子を、キャンプの中に作られたアフガニスタンの定食屋を舞台に描く。各国から戦火を逃れた難民たちに、英政府の方針を批判するイギリス人ボランティアが加わり、様々なバックグラウンドを持つ人々によって民主的な自治組織が生まれ、キャンプは「ジャングル」と呼ばれる村のようなものを形成していく。海岸に突っ伏した男児の遺体の報道写真や、バタクラン劇場のテロによって世論が対極に揺さぶられる中、キャンプ敷地からの強制退去に伴う2016年冬の仏機動隊の突入までを、難民の一人Safiが語り手となって、ジャングルに何が起こったかをたどる。

 変則系囲み舞台で、四方から台詞が聞こえ(多くはオーバーラップして)、目の前の通路を俳優たちが走り回るという状態で、極端に舞台との距離が近く、その意味で観客の没入を促すような造りになっている。スピード感のある転換やナチュラルで活気づいた俳優の演技、定食屋を模した座席の美術は、私をキャンプのメンバーの一員であるかのような錯覚を起こさせるほどのアクチュアリティを立ち上げていた。バタクラン劇場のテロが起こった後、キャンプの人々が'pray for paris'と書いた紙を掲げるシーンは、ドキュメンタリー演劇ではないかとさえ思えるほど、現実の出来事を作中に入れ込んでいた。(ナイーブかもしれないがこのテロは個人的にとてもショックが大きかったので当時のことをよく覚えており、なおのこと印象深かったのかもしれない。)

 同時に、Safiの語りを初めとして、明らかに戯曲の言葉であるという台詞が語られると、これはフィクションだったのだ、と不意に引き戻される。それはショックでもあり安堵でもある。安心できるのは、中核の一つである、スーダンの少年Okotの英国への脱出をめぐる物語*2の末路が悲惨なゆえであり、ショックであるのは「この程度」の悲惨さでキャンプの様子を垣間見た気になっていた自分に気づくからである。

  少なくとも日本の人間として、作中に自分を属性的にアイデンティファイできる人物はいないのだけど、しかし共感を覚えるかというのも難しい。難民たちの過去や現在の苦痛はただただ想像することしかできず、イギリス人ボランティアの言動は「善意」のいやらしさを醜く映し出す。フランスの警察や役人の冷徹な対応こそ、日本と最も近しいだろうが、ここにキャラクタライゼーションはない。

 強いて言えば、私だけでなく劇場の観客全体が、「マス」の一部として埋め込まれていたように思う。センセーショナルな報道に動揺し、ハッシュタグで祈りを捧げ、しかしその実態さえもSafiのような語り手を通じてしか知りえないし、知ろうともしない。奇妙なことに、そのような大衆の一人として見ているときほど物語にのめりこみ、いや私はそんな人間じゃないはずだと冷静になるときほどふっと作品との距離が離れるようだった。

 とても面白かったのは確かなのだけど、上手く評価が説明できない作品でもある。そして、そういう矛盾のような作品構造がどのように成立していたのか、戯曲、演出、演技、美術や舞台装置、政治的テーマの関連も(これ、意外なほどはっきりと各領分がわかれている)どう切り取ればいいのか悩ましい。そのうち掘り下げた研究論文でも出ないかなぁと期待している。

*1:はい、How To Win...と同じ劇場でマチソワ観劇でした

*2:これ、戯曲と上演でラストが変わっています。上演では、Okotの脱出の手引きを手伝ったSafiが彼を裏切って、代わりに渡英を果たしたことになっています(つまり、強制退去後も無事だった人物として語り手を担っていると解釈できる)。ところが、戯曲の段階ではOkotが無事に脱出し、彼を特に気にかけていたBethとのイギリスでの再会を匂わすエンディングです。

How to Win Against History by Seiriol Davies at Young Vic Theatre

観劇日:2017年12月20日14時45分

 

 19世紀末に生きた「変わり者」の貴族ヘンリー・パジェットの生涯を語るコメディミュージカル。男性三人(くっそ歌上手い)のパフォーマンスで、低予算的ぽく、そのわりに派手派手しい衣装や小道具、美術はわりとキャンプな感じ。

 そもそも、パジェット卿はドラァグ的なところのあった人物らしく、普段から女装して暮らし、見合い結婚するものの妻との関係は上手くいかず離縁。さらには無類のエンターテイメント好きで敷地内の教会を劇場に改装し、自作の上演に財産をぶっこむも、芸術家としても興行主としても才能はなかったようで全くの赤字という始末。パジェットは29歳で病死してしまうのだけれど、その死後、親類によって彼に関するあらゆる記録は燃やされたとされる。歴史的資料が無くなってしまった実在の人物の生涯を、舞台で描き出すにはどうすればよいのか、そして歴史から抹消されてしまった人物がその存在を今に取り戻すためには、つまり「歴史に勝つ」にはどうすれば良いのか、チープで華々しいステージの背景テーマが興味深い。

 当然ながら、パジェットに関する資料がとても限られているため、知りえる史実を時系列に並べ、その出来事を歌にしてしまうという方法で彼の存在を作り上げていく。構成だけで言えば事実の羅列であり、その意味では今作はあまり「ドラマチック」ではない。では、このタイトルの意味は何だろうと思っていたら、エンディングに歌われる'I sort of won'という、観客の発想の転換を促すシニカルで切ない曲に、それが込められていた。

 「私の存在が歴史から燃え去ったことを『残念だ』とあなたが本当に考えるのなら、私はある意味で歴史に勝ったのだ」

 この逆説的なフレーズを成立させるために、史実を補完するあるいはフィクショナルに描き直すということに徹底して禁欲的で、抑制していた。物語の単調さと歌の華やかさ

の妙なギャップが、ラストシーンで観客を鋭く刺激する。この転換は痛快で、同時にパジェットの生涯を改めて顧みる思いを残した終幕は、タイトルに適うものだった。

 物足りなさを言うとすれば、シークエンスのつながりは結構ぶつ切り感があり、もうちょっとスムースにならんかったかなぁと。とはいえ客席は満席、客層も老若男女を問わず、親子連れも多くて、こういう作品が広く観られるのはいいなぁと思った。

 

Young Marx by Richard Bean and Clive Coleman, NT live

観劇日:12月7日19時

演出:Nicholas Hytner

上演劇場:Bridge Theatre

 

 この秋完成したBridge Theatre*1のこけら落とし公演で、製作チームはOne Man Two Guvnors の面々。『資本論』上梓の前、ロンドンで極貧亡命生活を送る若きカール・マルクスが主人公。

 良く言えば天才の破天荒は悪く言えば人間のクズ、なわけで、とんでもないエピソードの数々に笑いつつ、マルクスの妻ジェニーにはただただ同情する二時間。(エンゲルスはなんだかんだで幸せそうだからいいのではないか。僕らは作家とプロデューサーだ、とマルクスに言われるシーンがあったけど、あれは昭和の漫画家と編集者の関係だと思う。)方々から返す当てのない借金をし、それでも衣食に困るほどの貧乏生活で、そのくせ嗜好品は止めず、あらゆる理由で常に警察に追われている。だいたい「若き」と言っても妻も子供もおり、資本主義が悪いのは良く分かったがその破壊的な金銭感覚はどうにかならんものか、いや突き抜けたザル勘定だからこそ世紀を変える経済思想を生んだのかもしれない、くらいに思わないと付き合いきれないタイプ。

 しかもマルクスのクズっぷりは金銭問題にとどまらず、使用人のニムと不倫関係の末に子供までできちゃって、慌てて彼女をエンゲルスと偽装結婚させようとするあたりは、てめぇこれコメディだから(あとエンゲルスの苦労人度とニムのかっこよさで)ぎり許されるやつだぞ、と心の中で叫んだ。それでも一応一線保っているのはどちらかというと脚本よりローリー・キニアの力のように思う。『三文オペラ』で老若男女が惚れ込んだキニアマックに続き、今回のキニアマルクスも大概人たらし。

 とはいえ、マルクスが愛すべき人間であるという描写は一貫してはいて、音楽好きでユーモラスな性格や、家族や友人への(ちょいちょいゆがんだ)愛情深さ、鋭い社会批評を通じて見える天才的な頭脳は、確かに魅力的な人物像を作り上げている。もともと、歴史的偉人を「人間的に」描き出すというのが今作のコンセプトで、金銭面にしても愛情面にしても人間関係にしても、とかく彼は矛盾していたということが重要な強調点だろう。人格者でお金持ちで筋の通った天才なんてスーパーマン(あれ、これエンゲルスでは)はいないんだよ、というメッセージに、マルクスを題材として取り上げる意気は中々チャレンジング。

  さて、作中で描かれる多数のトラブルはほぼ実話だそうで、見終わって、なかなか辛いなと思うのは、特に家庭内の事柄に関してはどう考えてもマルクスの、あるいは、後世彼の考えを引き継いでいった人々の思想に反する、というところ(これは創作だと思うけれど、マルクスが自分は残虐な仕打ちを受けている('brutalised')と愚痴を言って、マンチェスターの最貧困層の人々の生活を知るエンゲルスを怒らせる場面がある。まだ彼は思想家として未熟であるという脚本上のフォローは、そういう形でちゃんと入ってはいる)。私は芸術作品と人格は別物と考えてますが、さて思想と人格は別か?となると、ちょっと即答できない。でも、歴史的偉人を「聖人」としてではなく描き出す上でこのコンフリクトは避けようがなく、どこまで本当だったのかもはや知るすべはないにせよ、史実をどのように読みかえるのだろう、という点は興味深かった。

 個人的に一番面白かったのはニム、ジェニー、マルクスの三角関係で、演出、脚本ともに上手い切り抜け方だったと思う。ニムとジェニーの間に、レズビアン的関係が読みとれるかどうかの際どいラインでシスターフッドを築いていて、二人の間にマルクスに関わる負の感情が生じないようにしている。個人的にはニム→ジェニーに関してははっきり恋愛感情があるという設定でもおかしくない展開だと思ったけれど、マルクスの「クズ度」を和らげるために、歴史的な人物や出来事を(創作とはいえ)クィアに読んでいいのかは悩ましいところ。歴史的大著を生み出したけど人間的にはクズだった、という点に徹した誠実さは、たとえドラマの魅力を減じたとしても、買いたいと思う。

 来年のNTlive日本上映が確定したようでなによりです。

 

*1:劇場設立の中心人物は、今回の演出のニコラス・ハイトナーと元ナショナルシアタープロデューサーのニック・スター。ハイトナーも2015年までナショナルシアターの芸術監督で、つまり彼らは数年前までイングランド最大の公立劇場で辣腕ふるっていたわけで、その二人がなぜ「商業」劇場をウェストエンドの中心地をあえて外した場所(かつNTのご近所)に建てたのか、という芸術、興行上の理念はすごく面白いです。NTlive冒頭のハイトナーのインタビューでも少し語られてました。今回映画館で見ちゃって劇場にはまだ行ったことないので、近々ホワイエくらいは覗きたいです。

Real Magic by Forced Entertainment at mac

観劇日:2017年11月24日20時開演

(かなり走り書きなので後で修正するかも)

 観終わってすぐ、これはジュディス・バトラーのパフォーマティヴィティをポジティブな方向で解釈して舞台化したらこうなった、というものではないかと思いついて腑に落ちたので、なんかあまりこれ以上書かなくてもいいかなという気がするんですが、これだけだと数年後にこれ読み返して、何を観てん自分…てなるので、記録的に書いておきます。

 MCの司会のもと、出題者が考えている言葉(正解は手にした段ボールにでっかく書いてある)を目隠しした解答者(答えられる言葉は常に同じ)が当てる、三回間違えたら3者それぞれ役割交代というクイズ番組風のシークエンスをひたすら反復する。誰が解答者になろうと間違え続けるし毎回失敗する、というか正解しないこと自体がルールである。

 バラエティ番組の諸要素をいろいろに引用していて、それはパフォーマーの衣装であったり、カンドラフターやSEであったり、チカチカした照明であったり、MCのノリや解答者らのムード(生き別れた家族と再会っぽいやつが一番笑った)であったり、そうした部分で反復のバリエーションを生んでいく。

 けれど、重要なのはこのシークエンスの反復にどれほどパフォーマンスのボキャブラリーが豊かに用いられているかではなく、反復を通じて、三回間違えたらアウト、のルールの意味がずれていくことである。「クイズ番組」であれば、間違えたら失敗です残念でした、となるわけだけれど、途中から目隠しをせず解答席に座ったり、出題者が答えの書いたボードを持っていない、という事態が展開していく。答え見えてんじゃん、答えわかんないじゃん、という観客が当然のように受け取るばかばかしさは、逆に言えば、答えがわかってもわからなくても「間違えなければならない」という形でルールの縛りを見せつける。

 ルールの作用が変わる展開のキーになるのは三人のうちの唯一の女性パフォーマーであるクレアさんで、たぶん女性であるということはかなり意味を持っていると個人的には思う。三分の一くらいのところで、彼女が解答者になるターンがまわってきて、露骨に答えの書いたボードが示されるのだけれど、彼女は三度間違える。いくら答えが明らかで、解答がわかっていても、間違えるのがこの場の「お約束」なんですよね、というMCらの期待に抗えないのだ。その「知ってるけど知らないふりをしなきゃ」はしばしば女性が(あるいは立場の弱い人が)感じるあの居心地の悪さじゃないか、と思う。

 次に変化が起こるのは中盤で、これもやはりクレアさんが解答者役。反復のシークエンスの中では間違いの解答も常に同じである。(electricity, hole, money。ちなみに正解のボードに書かれている言葉も3パターンあり、caravan, algebra, sausage*1。)この時、MCと出題者の二人が'hole'や'money'の慣用表現を言葉遊びにして、文字通りの意味合いから比喩的な表現までさまざまに意味を取ろうとする。そしてMCが、どのholeの意味で答えました?と返すのだ。誤答にも解釈の余地があると示されたことで、では正解も間違いも解釈次第で、結局のところ「失敗する」という結果自体にしかルールの意味はないのではないかと気づかされる。

 正解だろうと間違いだろうと何を答えても失敗する、というのは完全にディストピアな世界観であり、後半のシークエンスの反復のサイクルはほぼルーティン化して加速度的に早くなる。しかし同時に明らかにされていくのは、このルールの「失敗しても役割が変わるだけで決定的に罰せられることはない」という側面である。

 最後のシークエンス、これもやはり(というか私は少し期待をしていた)クレアさんが解答者だった。MCが、出題者の考えている言葉を当ててくださいと、何度聞いたかわからないクイズのルールを説明する。出題者はボードを手に笑顔で立っている。解答者はもはや目隠しはしていない。正解はこれだよ、とボードをあからさまに解答者の方へ向ける出題者(これは前半部のクレアさんのターンの反復にも見える)、焦らずゆっくり考えてと繰り返すMCは、むしろ誤答が出ることを恐れているかのようだ。「正解」を言ってくれ、という二人の期待に反し、解答者は余裕の笑みでクイズに間違える。そもそもクイズの解答の成否は問題ではなく、もはやルールは意味をなさなくなり、それでもなお守り続けるMC達の方が滑稽だ。ルールが無意味になった以上、ではこの次はどうなるのかという期待を持たせての幕。もちろんこのルールは、この社会における規範の比喩である。

 すごく悲観的に見れば、やっぱりルール自体はなくなってないのだし、ルールの枠内で好き勝手やるってことに変わりはないんじゃないの、とも思うし、そうとればかなり希望のない作品だと思うけれど、個人的には、楽観的にすぎるかもしれないが、とても明るい作品だと思う。反復することでずれて変わっていくこと(それは必ずしも「良い」変化ではないかもしれないけど)の可能性をきちんとみせてくれた。

 Forced Entertainmentは舞台では数回、あと映像でわりと見ているのですが、どれを見ても出演者の人たちが隙なく上手くて、でもリラックスしたユーモアがあって、その様子だけで幸せになるんですが、あれはいったいどういう訓練をすれば達成できるのは本当に謎。今作のフライヤーのコピーは'Beckett Meets Trash TV'で、例えばベケットをやったりはしないんだろうか、とぼんやり思うのですが、まぁやらないだろうなぁ…。

 

*1:脚注にして書きますが、ソーセージに関してはすっげぇベタな下ネタをかます場面があり(想像してください)わぁ30年選手のベテランもこんなのやるんだとちょっと感動しました。無理やり意味をくみ取るとすれば、その次のターンでのほぼ下着姿の女性パフォーマーのポージングが妙にエロく見えるという視点の切り替えでしょうか。そこまで深く考えているのかわかりませんが。

脚注に追記:これ、正解の単語も比喩的に取れるよ=解釈次第だよ、ということかもしれません。

Lefty Tightly Righty Loosey by Fin Taylor at Soho theatre

観劇日:11月20日21時15分*1

 

 今週、ソーホーシアターでめぼしい演目は実は他にも二つあって、一つはUrsula Martinezら女性パフォーマー三人がお尻を向けてるポスターがインパクトあるWild Bore、もう一つはヴァギナモノローグのオマージュと思しきThe Butch Monologues。おそらくフェミ的安パイだろう上記二作に少し未練を残しつつ、思い切って賭けに出たのがこのフィン・テイラーさんのスタンダップだった。*2 *3

 今年のエジンバラフリンジが初演で、すでにそのレビューもいろいろ出ているのだけど、今作のアイデアを知った瞬間、これたぶん観とくべきやつや…の勘が働く。そのアイデアこそ「ぼく、左翼でいるの止めます」という冒頭の(文字通りの)パンチラインである。

 終わりの見えないポリティカルコレクトネス、際限なく増えるアイデンティティポリティクス、社会に特に影響を及ぼさない反資本主義的営為の「矛盾」をたたみかけ、結局思想というものはこの多文化社会を変えることはなくて、それを覆い隠すユートピア的ヴィジョンなんだ、と皮肉で締めてくる。

 もちろん、シニシズムに陥ってそれきりだったら、拗らせたノンポリとか確信犯的右派とかと変わらないわけで、中盤近くまで結構警戒しながら聞いていた。だけど、シスでストレートの男であることの「特権」って「罪」なのか?、と語る姿勢にはジョークと思えぬ真摯さがあって、もう少し見ていようと思った後半から、本当に落っこちるんではないかというレベルの崖っぷちを全力疾走するエピソードをぶちこんできて、政治思想を「持たない」とはこういうことを意味するのかと、口元が引きつる。あぁあなたの態度はただの拗らせやシニシズムではない、もっと深いところから考えこんで捻じれてブチ切れたのですね、と降参してしまった。(どういうネタだったかは、さすがに私も自分のブログに書くのははばかられるので、書きません。)

 わりと個人的な経験にがっつり刺さってしまってしまい、時に笑いを超えて、うーわーそれめっちゃわかる泣笑怒、というゾーンに入り、なんかあまりコメディを見た気がしないぐらいだった。自他ともに認める「リベラル左派」の人に足を踏まれた経験は一度や二度ではないし、私自身がそういう振る舞いをしてしまって途方に暮れることもあった。矛盾を突き詰めていくほど矛盾して、左派止めます宣言できたらどんなにいいだろうかと思ったことはある。でも当然ながら、私がそれをやっても拗らせた文化人たち以下にしかならないのも容易に想像がつくし、テイラーさんのように腹をくくれないのなら(もちろんそれが理想的とも思わないけれど)ただただぐるぐると悩むしかない。

 ひとつ例を挙げると、テイラーさんが黒人の友人と飲みに行ったとき、お店でブルースの演奏をしていたミュージシャンがみな白人で、友人が「これって文化収奪だよね」と言ったというエピソード。この種のPCの指摘に対する応答を私はずっと考えていて、いまだに答えはない。(エピソード中に語られるテイラーさんの答えにも、私は完全には同意できない。)文化芸術研究の仕事とはそういう問題を延々と考えることなのだ、とたえず確認し直すことが私にとっての政治的態度の在り方だし、テイラーさんが「左派止めて」もなお政治に関して全然楽になってないのも(そしてこれをコメディとしてしまうことも)彼の政治への向き合い方なのだと思う。

 ショウの途中で、テイラーさんが年下だとわかりすごい驚いた(1990年生まれかな)。30歳は超えてるだろうという誤解は、むすっとした髭面の宣材写真だけのせいではないと思う。この人がこの先何を考えていくんだろうと、とても気になっている。

*1:「月曜の夜にわざわざ!」といじられました。

*2:コメディ関係の情報はイナムラさんにお世話になっております。リンク:Go Johnny Go Go Go Part II: Fin Taylor

*3:あと、Wild Boreはこの評判だとバーミンガムツアーありそうだな、という気がしている。テイラーさんもあるかもだけど、こっちのコメディアンの人のツアー形式がまだよくわかってない。